8ぴきめ(2002年12月)
特集・映画と障がい者〜スクリーンの内と外
スターウォーズと障がい者
馬詰 富保
(大阪障がい者労働センターのんきもの)
R2‐D2といえばスターウォーズにかかせないキャラクターである。さてこのキャラクターをどうやって動かしているのか不思議だった。
人形を操っているのか、制御されたロボットなのか、それともコンピューターグラフィックなのか。
正解は実に単純であった。ロボットの「ぬいぐるみ」だったのである。中に人間が入っているのだ。ケニー・ベイカーという役者さんが入っている。なるほど、それでうまく動くのだなと。
いや、まてよ。R2‐D2は小さい。あんな小さなものに人間が入れるのか。
たいていの人はあんな小さなものに人間が入れないと思っているから、操り人形とかコンピューターグラフィックとかを想像する。人間に対する考え方が固定しているのである。大人の人間なら身長160pから180pぐらい。足が2本で手が2本、手と足の指は5本、目は2つ、耳も2つというぐあいにイメージを作り上げている。この基準で考えるからR2‐D2がぬいぐるみだとは考えない。
しかし現実はぬいぐるみだった。中に人間が入っている。小さな人間が。身長が1mに満たない背の低い人が。
ハリウッドにはこのような仕事をする人たちがいっぱいいるらしい。当然といえば当然なのだ。
どんな映画でも人間が出る。アニメは別として。人間には大きな人、小さな人、障がい者、高齢者、いろいろな人間がいる。たとえば酒場のシーンで大勢の人がいれば、障がい者もいて当然なのだ。だから障がい者の役者がいて当然なのだ。ハリウッドにはこのような奥の深い、幅の広い入れ物があるのだ。いろいろな映画を作るたびにいろいろな役者が出てくる。当然障がい者の役者も出る。この地盤があったからスターウォーズが生まれたともいえる。
日本ならこんなこと思いつかない。小さなロボットの中に小さな人間を入れるなんて。日本の映画界の懐がいかに浅いかということだろう。下手をすれば障がい者差別だと、薄っぺらな中身のない連中がいうかもしれない。しかしこれはビジネスなのだ。
例をあげると、小さなビンに大事な物が入ってしまった。ビンの口が小さくて大人の手では入らない。だから子どもに頼んでビンに手を入れて取ってもらった。
これと同じである。小さなキャラクターをリアルに動かしたい。しかし操っていたのでは微妙な動きが出ない。そのときに身体の小さな人に入ってもらって演技をしてもらう。簡単で明快な理由である。
1999年に公開された「スターウォーズ・エピソード1」では、中に入っている人の名もクレジットで出ていた。種明かしである。今までのシリーズでは出ていなかったのに。
ここまで有名になったシリーズである。R2‐D2は人形なのか、それとも中に人間が入っているのかという論議はもはや存在しない。だからあえて隠すことはなくなったのだろう。ちなみに、ヨーダは操り人形である。
僕は、スターウォーズは25年前にそれまでのSF映画を根底から変革したと思っている。だから今回のクレジットに、中に入って演技をしている役者さんの名が出たのは良かったと思う。
これは映画界だけのことではない。現実の社会でも同じである。人間にはいろいろな人がいて当然なのだという考え方が大切だ。
障がい者の問題は「人間観」の問題であることは今さら言うまでもないだろう。人間観を今までの狭いものからもっと大きく広く持つことが障がい者問題を考える上で重要でないか。今までの人間観を変えることが障がい者差別撤廃の必要条件だと思う。
うまづめ・とみやす●現在、大阪市城東区の小規模障がい者福祉作業所「大阪障がい者労働センターのんきもの」所属。http://www.cam.hi-ho.ne.jp/nonkimono/