2ひきめ(2002年6月)

まねき猫がであった 今月のおもろい人

               玄侑宗久さん




 城下町の佇まいを残す福島県三春町。この町の禅寺で生まれ、現在副住職を務める玄侑宗久さんは、昨年七月、小説「中陰の花」で芥川賞を受賞されました。

 私にとってものを書くということは、ひとつのバリアを超えるということです。言葉というのは物事に輪郭を与えるものですから、そういう意味では書くということはバリアを作っていく作業であるわけです。でも、小説を書いていて、ある段階を超えると自分自身の無意識―仏教では阿頼耶識(アラヤシキ)という言葉を使うんですが―に届くというんですかね。混沌とした「わたし」が出てくる。それがこたえようもなく愉しい。そうやって私が自分自身のバリアを超えたとき、私の小説を読んでいる人も同じようにバリアを超えちゃうことがあるんじゃないでしょうか。
 少し禅の話をすると、仏とは「ほどける」ということなんです。私らは自分の中でいろんなものを作り上げちゃっているわけですよ。たとえば「あの人が嫌いだ」ということは、本来の心が起こしている作用ではなく、「あの人が嫌いだ」という自分を作り上げていると禅では考えるわけです。つまりバリアですよね。そういうものをすべてなくすことはできないけど、それを「ほどく」時間を作るのが禅なんです。

 バリアを超えるというのは、分からないことを分からないままに受け容れること、つまり「慈悲」ということだと思います。「分かる」ということは「分ける」ということなんです。「こうであるもの」と「そうじゃないもの」を強引に分けること、つまりバリアを設けることで我々は「分かる」わけです。同じ出来事が起こっても、私が分かったというのと、あなたが分かったというのは全然違うわけです。持っている価値観というナイフが違いますから、切り口が違う。
 分からないことを分からないままに受け容れるというのは難しいことなのかもしれません。でも、分からないから苦しいんじゃなくて、分からないから楽しいと考える方がいいじゃないですか。分からないからこそ信じることができるわけです。たとえば死ということについて、私らのロジカルな頭で考えても答えは出ないと思います。だから分からないとしか言えない。でもね、そのときはおもしろいことが起こるんじゃないかなぁ。


玄侑宗久●げんゆう・そうきゅう
一九五六年、福島県三春町生まれ。さまざまな仕事を経験した後、京都、天龍寺専門道場にて修行。現在は三春町の臨済宗妙心寺派、福聚寺副住職。「中陰の花」で第一二五回芥川賞受賞。
ホームページ http://www.genyusokyu.com


 

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