2ひきめ(2002年6月)
特集・日韓関係について考えてみよう

韓国語(かんこくご)()()い、(ひろ)がった交流(こうりゅう)
岡田(おかだ) 智恵子(ちえこ)



 韓国語(かんこくご)との()()いから 

 大学(だいがく)韓国語(かんこくご)専攻(せんこう)した、と()うと、ほとんどの(ひと)から「なぜ?」と()かれますが、(とく)(ふか)理由(りゆう)はありません。英語(えい)勉強(べんきょう)するつもりだったのが「日本(にほん)(となり)(くに)なのに(なに)()らないし、ハングル文字(もじ)面白(おもしろ)そうだから」という単純(たんじゅん)(りゆう)だけで第二(だいに)志望(しぼう)として(えら)んだ韓国語(かんこくご)学科(がっか)(はい)ったというのが事実(じじつ)です。でも、「韓国(かんこく)」というキーワードにひかれて(えら)んだ場所(ばしょ)でさまざまな出会(であ)いがあり、(わたし)自立(じりつ)までの過程(かてい)とも(ふか)(かか)わっています。

 韓国(かんこく)()かれた学生(がくせい)時代(じだい) 

 大学(だいがく)(ねん)(はる)(やす)み(一九九三(ねん))に語学(ごがく)研修(けんしゅう)(はじ)めてソウルを(おとず)れました。(わたし)介助(かいじょ)のために(はは)()てくれました。学校(がっこう)(なか)(まち)(なか)階段(かいだん)段差(だんさ)ばかりという状況(じょうきょう)では、日本(にほん)での生活(せいかつ)(ちが)って(だれ)かの()()りなければ食事(しょくじ)にもトイレにも()けず、(はじ)めて自分(じぶん)障害(しょうがい)真正面(ましょうめん)から()()った三週間(しゅうかん)でした。また、ソウルの(まち)(なか)重度(じゅうど)障がい者(しょうがいしゃ)(ちい)さな(くるま)()いた(だい)にうつぶせになり、お(かね)(もと)めている姿(すがた)にショックを()けました。

翌年(よくねん)(はる)にも(ふたた)語学(ごがく)研修(けんしゅう)参加(さんか)しました。このときは前半(ぜんはん)の二週間(しゅうかん)(はは)と、後半(こうはん)の二週間(しゅうかん)をボランティアの大学生(だいがくせい)()ごしました。その翌年(よくねん)夏休(なつやす)みには、ペンフレンドの(いえ)一人(ひとり)(あそ)びに()きました。

そして、大学(だいがく)(ねん)夏休(なつやす)み。知人(ちじん)から「ソウルで日本(にほん)韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)交流会(こうりゅうかい)がある」と()き、参加(さんか)することにしました。普通(ふつう)学生(がくせい)なら必死(ひっし)就職(しゅうしょく)活動(かつどう)をしている時期(じき)ですが、またもや「韓国(かんこく)」という言葉(ことば)にひかれて…。「差別(さべつ)とたたかう共同体(きょうどうたい)全国(ぜんこく)連合(れんごう)共同連(きょうどうれん))」と韓国(かんこく)の「障碍友(しょうがいゆう)(=障がい者(しょうがいしゃ)権益(けんえき)問題(もんだい)研究所(けんきゅうしょ)」が開催(かいさい)した「(だい)(いっ)(かい)日韓(にっかん)障がい者(しょうがいしゃ)国際(こくさい)交流(こうりゅう)大会(たいかい)」で、(わたし)(はじ)めて本格的(ほんかくてき)韓国(かんこく)障害(しょうがい)をもつ(ひと)たちと出会(であ)いました。また、(つたな)語学力(ごがくりょく)ですが通訳(つうやく)のお手伝(てつだ)いもできました。

 日韓(にっかん)障がい者(しょうがいしゃ)(はし)(わた)しに 

 その(ころ)卒業後(そつぎょうご)進路(しんろ)について(なや)んでいた(わたし)にとって、交流(こうりゅう)大会(たいかい)への参加(さんか)(おお)きな転機(てんき)となりました。「ここに(わたし)仕事(しごと)がある」と(おも)ったのです。ちょうどこの大会(たいかい)自立(じりつ)生活(せいかつ)センター・立川(たちかわ)事務(じむ)局長(きょくちょう)当時(とうじ))の野口(のぐち)さんと出会(であ)い、「日本(にほん)韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)橋渡(はしわた)しとなる仕事(しごと)がしたい」という(おも)いが(おお)きくなりました。そして、そのためには日本(にほん)福祉(ふくし)のことをもっと()らなければと、自立(じりつ)生活(せいかつ)センターへの就職(しゅうしょく)()め、同時(どうじ)親元(おやもと)(はな)れて立川(たちかわ)一人暮(ひとりぐ)らしを(はじ)めることにしました。

 (はじ)めて韓国(かんこく)()(まえ)は、物理的(ぶつりてき)なバリアがかなり(おお)いと()いていたので、()くのをあきらめかけたこともありました。でも、()って正解(せいかい)だったと(おも)います。(はは)介助(かいじょ)つき、ボランティアさんとの共同(きょうどう)生活(せいかつ)一人旅(ひとりたび)、とステップを()みながら、就職(しゅうしょく)一人暮(ひとりぐ)らしにまで(むす)びつけることが出来(でき)たのですから…。

 仕事(しごと)韓国(かんこく)(かか)わる 

就職(しゅうしょく)してからは、(ねん)に一〜二(かい)韓国(かんこく)関連(かんれん)した仕事(しごと)をする機会(きかい)がありましたが、その(なか)(とく)印象(いんしょう)(のこ)っているものを()げたいと(おも)います。

九八(ねん)(がつ)、ヒューマンケア協会(きょうかい)東京都(とうきょうと)八王子市(はちおうじし)主催(しゅさい)の「(だい)(いっ)(かい)韓日(かんにち)障がい者(しょうがいしゃ)自立(じりつ)生活(せいかつ)推進(すいしん)セミナー」に講師(こうし)(けん)通訳(つうやく)として参加(さんか)しました。自立(じりつ)生活(せいかつ)プログラムとピア・カウンセリングのノウハウを五日間(いつかかん)のプログラムで韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)(つた)えるというものでした。(わたし)たちは「講師(こうし)受講生(じゅこうせい)」ではなく、あくまでも(おな)障害(しょうがい)をもつ(もの)として(たい)(とう)立場(たちば)(かれ)らと(せっ)したいと(おも)っていたのですが、どうしても(わたし)たちは「講義(こうぎ)をして(くだ)さる先生方(せんせいがた)」にされてしまうのです。年齢(ねんれい)立場(たちば)(うえ)(ひと)(うやま)うという儒教(じゅきょう)思想(しそう)(つよ)韓国(かんこく)では()たり(まえ)のことなのかもしれませんが…。受講生(じゅこうせい)一緒(いっしょ)食事(しょくじ)をしていると、(わたし)たちにだけ玉子(たまご)()きや海苔(のり)といったおかずが一品(いっぴん)(おお)()いてくるのには苦笑(にがわら)いするしかありませんでした。ヒューマンケア協会(きょうかい)ではその()継続的(けいぞくてき)韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)自立(じりつ)生活(せいかつ)運動(うんどう)支援(しえん)(おこな)い、(いま)では韓国内(かんこくない)(ふた)つの自立(じりつ)生活(せいかつ)センターが誕生(たんじょう)しています。

 ワールドカップ会場(かいじょう)をバリアフリーチェック 

最近(さいきん)面白(おもしろ)かったものとしては、「日韓(にっかん)ワールドカップバリアフリーチェックプロジェクト」があります。DPI(ディーピーアイ)障がい者(しょうがいしゃ)インターナショナル)日本(にほん)会議(かいぎ)と〈日本(にほん)在日(ざいにち)韓国(かんこく)〉ユースフォーラム、障碍友(しょうがいゆう)権益(けんえき)問題(もんだい)研究所(けんきゅうしょ)をはじめとする障がい者(しょうがいしゃ)団体(だんたい)市民(しみん)団体(だんたい)協力(きょうりょく)して、昨年(さくねん)(がつ)から今年(ことし)の四(がつ)にかけて、日韓(にっかん)二〇ヶ所(かしょ)のワールドカップ会場(かいじょう)とその周辺(しゅうへん)のアクセスのバリアフリーチェックをしました。どの競技場(きょうぎじょう)一応(いちおう)「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」をうたってはいますが、よく()ると障害(しょうがい)当事者(とうじしゃ)視点(してん)()()ちています。(たと)えば、観客(かんきゃく)興奮(こうふん)して()()がってしまったら車椅子(くるまいす)観客席(かんきゃくせき)からは(なに)()えない、という競技場(きょうぎじょう)(すく)なくありません。これならテレビで()たほうがましです。

また、韓国側(かんこくがわ)のチェックでは、点字(てんじ)ブロックの敷設(ふせつ)(うった)えたところ「視覚(しかく)障がい者(しょうがいしゃ)がサッカーを()()るのか」と()(かえ)されたそうです。そして、あれこれ指摘(してき)すると「ワールドカップまでに(なお)すのは(むずか)しい」という(こた)えが(かえ)ってくるのですが、そんなことは充分(じゅうぶん)わかっています。でも、障害(しょうがい)のない(ひと)のほとんどが普段(ふだん)(かんが)えたこともないであろう「障害(しょうがい)当事者(とうじしゃ)視点(してん)」に()づいてもらいたい、そんな(おも)いでこのプロジェクトに参加(さんか)してきました。                  
 
      

      ソウルの競技場(きょうぎじょう)でバリアフリーチェック。(ひだり)岡田(おかだ)さん。


 韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)のパワー 

 昨年(さくねん)一〇(がつ)訪韓(ほうかん)した(さい)、ソウルの自立(じりつ)生活(せいかつ)センターを見学(けんがく)しました。日本(にほん)から(おく)られた中古(ちゅうこ)電動車(でんどうくるま)椅子(いす)()って事務所(じむじょ)(なか)自分(じぶん)(いえ)などを颯爽(さっそう)案内(あんない)してくれたスタッフ、リフトやエレベーターがついている地下鉄(ちかてつ)(えき)(わたし)(はじ)めてソウルを(おとず)れた(とき)状況(じょうきょう)とは(あき)らかに(ちが)っていました。韓国(かんこく)福祉(ふくし)(たと)えて「(むかし)日本(にほん)()ている」とよく()われますが、もしかしたら韓国(かんこく)障がい者(しょうがいしゃ)日本(にほん)障がい者(しょうがいしゃ)()いつき、()()すのはあっという()かもしれません。(かれ)らは勉強(べんきょう)熱心(ねっしん)で、日本(にほん)()ると「あの(はなし)()きたい、ここに()きたい」と要求(ようきゅう)し、()(かえ)れる資料(しりょう)(なん)でも()(かえ)り、貪欲(どんよく)なまでにいろんなものを吸収(きゅうしゅう)して自分(じぶん)たちのものにしようとしています。(わたし)などは、()たしてそれだけのパワーが自分(じぶん)にあるか…と()()()(かえ)ってしまうのです。

 そしてこれから 

 先述(せんじゅつ)の「障がい者(しょうがいしゃ)国際(こくさい)交流(こうりゅう)大会(たいかい)」は韓国(かんこく)日本(にほん)交互(こうご)(かい)(かさ)ね、(だい)(かい)大会(たいかい)が七(がつ)東京(とうきょう)(ひら)かれます。交流(こうりゅう)()韓国(かんこく)だけでなく(ほか)のアジアの障がい者(しょうがいしゃ)へも(ひろ)がろうとしています。(わたし)韓国語(かんこくご)勉強(べんきょう)(つづ)け(できれば英語(えいご)も)、微力(びりょく)ながらその手助(てだす)けが出来(でき)れば(うれ)しいと(おも)っています。

岡田智恵子●おかだ・ちえこ
一九七三(ねん)()まれ。訪韓(ほうかん)はこれまでに十回以上(かいいじょう)美味(おい)しい食事(しょくじ)と、CDショップと本屋(ほんや)めぐりが(たび)(たの)しみです。

                    
     

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