「六一年目の広島」から思うこと/石塚直人
13年ぶりに広島を訪れて
この七月、十三年ぶりに広島を訪れた。一月から毎月下旬、読売新聞のウェブサイト「Yomiuri Online」関西版に連載しているボランティアグループ紹介記事「訪ねました」の取材である。連載七回目を何にするかあれこれ考えた末、平和記念資料館を中心に展示物や慰霊碑の解説を担当する「ピースボランティア」と決めた。
私は九一年春から二年間、広島で仕事をした。県行政と参院選などを取材して内勤のサブデスクとなり、原爆絡みの取材はほとんどできなかった。戦後生まれの二世、三世政治家がろくに歴史も学ばずタカ派発言を繰り返す今、やりたかった仕事を少しでも、と願ったのは言うまでもない。
勤務の都合で日帰り出張となり、グループの活動の合間にあわただしく話を聞いた後、不足分は後日、電話で取材した。記事の全文はインターネットで見ていただくとして(http://osaka.yomiuri.co.jp/volunteer/group/)、印象に残ったことが二つあった。
わずか半日で、偶然とは思えぬ出会い
一つは、わずか半日の取材で「被爆直後に広島に入り、三千人の遺体を焼いた」男性、「結婚して十日目に被爆し、以来体内に無数のガラス片が入ったまま」の女性にぶつかったこと。直接ではなく、ピースボランティアのメンバーがその日会ったのを間接的に聞いただけなのだが、とても偶然とは思えなかった。
いまもつづく「あの日」の記憶
もう一つは、メンバーの一人である被爆者の女性に取材を拒否されたこと。原爆とのかかわり、活動のきっかけなどの質問に、穏やかな顔で答えてくれていた彼女の話は、途中で突然止まった。「一つ言うだけでもつらい。何も言いたくない」。しばらくして「ごめんなさい」とだけ、言葉を絞り出した。原爆投下から六一年、多くの当事者にとって、今も「あの日」は単なる歴史のひとこまではない。
広島の現実もっと知って
大阪本社発行の全国紙は、七月半ばから原爆忌まで、社会面などに熱のこもった広島発の記事を出稿する。それは確かに評価すべきことだが、実は、広島県版には原爆や反核運動絡みの記事は年中、ほぼ連日載っている。一方で、大阪本社出稿の記事中、東京本社発行の紙面に載るのはさらに少ない。その落差の大きさを、広島に住んだことのない人にも知ってほしいと思う。
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前号で、スポーツ記事と「読者の眼」について触れましたが、八月二日の亀田興毅世界戦には驚きました。あの判定が許されるならボクシングはスポーツではなく、単なる見せ物興行です。さすがに一般紙ではそれなりの扱いでしたが、多くのスポーツ紙のおめでた報道ぶりはその限界も見せつけました。短時間でダイナミックの紙面、の行き着く果てがこれです。
(2006/09/08)