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時代と真正面に向き合うドキュメンタリー/石塚直人

はじめに

泊まり勤務の最中、つけっ放しでもほとんど見ることのないテレビから懐かしい人の名前が聞こえ、思わず画面に目をやった。三重・四日市海上保安部の警備救難課長として、日本で初めて公害企業の刑事責任を追及した田尻宗昭さん。モノクロの画面には、太いパイプから海に流し込まれる工場廃液が映し出されていた。

番組は「NHKアーカイブス」。日曜夜一一時から、NHKが過去の優れたドキュメンタリーを再放送しているもので、この日四月一六日は環境問題ガテーマの三本立て、私が引き寄せられたのは七〇年一二月に放送された「ある人生・海をかえせ」だった。

田尻さんを初めて知ったのは、高校生のときである。七二年に岩波新書で出た「四日市・死の海と闘う」で、彼はその先駆的な仕事の内幕を詳しく書いた。公共・公益のために働くとはこういうことか、と深い印象が残った。

密猟で逮捕した漁民の「工場のせいで全く魚が採れんようになった。食うていけんからやるんじゃ。漁場を荒らした工場が犯人やのに、わしらだけ捕まえるんは、あんたら企業の手先か」の訴えが、すべてのきっかけとなったという。

それを聞き捨てにしなかったのは、九歳までに両親を失い、以来祖母の仕送りで一人で生きてきたつらい生い立ちがあってのことかも知れない。強い者の無法を黙認する官界の事なかれ体質は、彼には無縁だった。慣れない職員を指揮して会社の摘発にこぎつけ、裁判で有罪判決が出た。

判決前に彼は転勤させられるが、その後東京都の公害局に引き抜かれ、全国規模で活動する反公害運動のリーダーとなった。九〇年、がんのため六二歳で亡くなったのは早すぎた。

真実をつかむ記者の執念、今は

「NHKアーカイブス」を見て思うのは、画面がモノクロだった時代の取材の素晴らしさだ。時代と真正面から向き合い、自分の手と言葉で真実をつかみ伝えたいという記者の執念が感じられる。ナレーションも静かで、今のテレビによくある騒々しいものではない。

久しぶりに田尻さんを思い出してうれしくなった私は、インターネットで彼についての情報を探し、当時の公害問題を振り返ってみた。今年は水俣病が公式に確認されて五〇年、西部本社からはこの夜「未認定患者の救済にかかわる医師らが、新しい診断基準をまとめた」との記事が出稿された。スペースが限られているせいではあるが、これが東京や大阪の紙面に載らない現状は、やはり悲しい。

(2006/09/29)



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