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特集:地域が支える多様な場所でトータルに支える/ノーマライゼーション協会

信頼できる仲間に支えられ施設から自立へ

下田幸一さん(仮名・三三歳)は、今年九月、知的障がい者生活施設「ハニカム」から出て四人での共同生活を準備中です。

下田さんは、ハニカムがある東淀川で生まれ、地元で障がい児保育にとりくんできた保育所「聖愛園」を出ました。養護学校卒業後は、授産施設に通いましたが、他の利用者を殴ったと三ヶ月で退所処分に。それから在宅が続きました。母親は重い脳梗塞で長らく入院、父親と二人で暮らしていたのでした。

九五年に「デイアクティビティセンター・ふりーさいず」開所の時、福祉課から紹介があり、私が面接したのです。 印象的だったのが、「ここに通えるようになったら、爆弾を仕掛けていいですか?カッターナイフを持ってきていいですか?」と言った下田さんの言葉です。「どうぞ」と言ったら、本人は喜んでいました。そういう言動のある方です。

下田さんはお話好きな人です。他人との距離のとり方が難しく、時に乱暴な振る舞いや言葉が出てしまいます。 集団生活になじまず乱暴な言動で行き場を失っていることがわかったので、「いいですよ」とその言葉を引き受け、下田さんは週に二日、昼食を食べに来るようになりました。それ以外は、無料パスで電車を乗り回すのが日課になっていました。

「ふりーさいず」に来た頃は、他の利用者さんの体を触りにいったり、職員を叩いたり。「あかんなあ」ということで、イエローカードとレッドカードを作り、黄色が三つたまったら赤で「悪いけど帰ってね」という約束に。また、「やめなさい」と言う前に、「痛い」「イヤ」と言葉に出して、相手がどう感じるかを伝えるようにしました。

お父さんとの生活では、食事や家事も含め必要なフォローが充分できませんでした。ハニカムが開所した二〇〇〇年四月に入所が決まりました。それから六年間、ハニカムでの生活で下田さんは安定した信頼関係を築き、今では週五日、朝一〇時から四時まで洗濯やマット編みの作業をこなし、土・日は自宅でという生活を送っています。

生活を支えていく関係づくり

支援する側としては、「負の特性」という面も含めて、まずその人のことを、とことん知らなあかん。制裁や指導より、まず受けとめ認めることから始めないと、その人との関係が築けないと思っています。 攻撃的な言葉や態度は、それをきっかけにして周りの人が自分に目を向けてくれるからで、いわば話題づくりを一生懸命やっているわけです。だから、それを受けとめながら、いっしょにいい体験をする機会をつくっていきます。旅行に行ったりおいしいものを食べたり。もともとそういう経験が非常に乏しいなかで生きてこられたわけです。また、作業などでも、できる部分を短い区切りにして「できたね」と評価していきます。

今までは人を殴って自慢していたのが、「今日はこれだけの仕事ができた」とうれしそうに言うようになりました。彼自身が潜在的に、人との関係を築く力も作業をこなす力ももっていたということです。社会から放置されて「危険な人」というレッテルを貼られていた下田さんは、ハニカムで信頼感に支えられた人間関係を粘り強く作り上げ、小グループで自立生活への歩みを始めました。

「重要なことは、どれほど豊富なサービスを提供できるかではありません。究極をいえば、そこにいてくれるだけで下田さんが安心できる―そういう職員や仲間との人間関係がどの程度作れてきたかどうかがポイントです」と鍋島さんは語ります。

ヘルパーの家事援助で一人暮らし

高田真弓さん(仮名・三五歳)は、地域の学校から 高槻養護学校高等部に進み、卒業後はクリーニング店で働いた経験があります。二〜三年でダメになって、授産施設に通所されたこともあります。障がいは「軽度」といわれるような方です。 母親が病死され、一〇年間在宅で父親との二人暮らしでした。その間、食事が偏り、生活リズムが乱れても、何のフォローもなく過ごされていました。 二〇〇〇年、ハニカム開設を機に入所が決まりました。父親は高齢で体調を崩され、「お父さん、大丈夫かなぁ」と週末は自宅に帰っていましたが、一年後に亡くなられました。

もともと自立生活への移行を前提に、ハニカムで安定した生活を立て直そうと高田さんに関わってきました。四年目くらいから具体的な動きを始めました。定時に遅れず仕事に出るなど、一般就労に向けて自分の力をつけてもらうよう、日中は作業所に通い、アパートを借りての生活を始めました。 最初は職員が毎日のようにアパートへ見に行って、「何かあったら電話しいや」「いつでもハニカムへ来てもいいで」とメンタル面でサポートしていました。徐々にヘルパーさんに引き継ぎ、今では、週三回ヘルパーの家事援助を受けながら、一人暮らしをしています。 将来的には、年金とあわせて彼女自身が納得できる生活をまかなえるよう、月四〜 五万円の収入が得られること、そして社会的にも認められる仕事ができるようになってもらいたい、と思っています。

ハニカムは、「中間移行施設」として運営されています。地域でどう生きていくのか、本人がはば広く選びとっていけるよう、支援のしくみづくりや連携を創りあげようとしています。

当事者の要求尊重し、地域で支える

ノーマライゼーション協会は、障がい当事者と障がい児の親の必要に沿って運動を展開し、障がい児・者の人生と生活を可能な限り継続的に支えようとする意思とそれを支える社会資源を作り上げてきました。その意味で、「当事者との信頼関係に基づいた継続的支援が生命線だ」と鍋島さんは語ります。

ノーマライゼーション協会の母体となったのは、「障害児・者の生活と教育権を保障しよう淀川・東淀川区民の会」(略称「しよう会」)です。

一九七五年、保育所入所を断られたり、就学猶予になったりした子ども達の行き場を求めて親の会が結成され、原学級保障・医療保障・学童保育の要求を掲げた運動が始まりました。八〇年、国際障がい者年を契機に高校入学・仕事保障運動へと発展。学校卒業後の「生活の場」づくりから、八五年に軽作業、手織りなどの知的障がい者授産施設「西淡路希望の家」、八八年福祉作業センター「あいハウス」を相次いで開所。その後もデイサービスや相談支援事業、生活施設「ハニカム」のオープンと、知的障がい者の生活支援、社会参加、経済的自立を推し進める拠点づくりがすすめられてきました。

「共に生きる」関係を疎外する自立支援法

障がい者自立支援法は、障がい福祉を介護保険制度に統合する移行措置としての性格を持っています。六五歳になった途端に、障がい者の生活実態についての知識も理解もないケアマネージャーがマニュアルに沿って介護プランを作りあげてしまうことにもなりかねません。 障がいの程度を機械的に輪切りにして「審査認定」し、「この程度区分ならこの介護サービス」と決めていく制度のしくみは、共に生きるための人間関係を無視したものです。

それは、個性、障がい特性に応じ、当事者の主体性・個性を大切にした地域生活支援をめざすノーマライゼーション協会の考え方とも実践とも相容れないものです。「社会的に排除されてきたがゆえに、信頼関係に基づいた人間関係から疎外されやすい知的障がい者の、人権擁護を実現する流れに逆行する制度でしかありません」鍋島さんは自立支援法をこう批判します。

(2006/09/29)



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