人権より「世界の常識」優先?の社説/石塚直人
「『日の丸・君が代』強制の東京都教委通達は違憲」・・。今年最もうれしかったニュースは、と問われれば、私はこれを挙げる。都立校教職員四〇一人が、都教委の通達の無効を訴えた裁判で、九月二一日に東京地裁の判決が出た。判決は「良心の自由」に土足で踏み込んだ都教委の非を鳴らすにとどまらず、原告の精神的な被害に対する賠償まで命じた。
憲法と教育基本法に従う限り、これ以外にありえない判断だろうが、司法の保守化が進んだため、実際の判決で国や地方行政の既定方針が覆されることは珍しい。国会で改憲勢力が圧倒的多数となった今、そして戦後教育を「自虐史観」と罵ってきた国家主義者が首相となる直前、憲法と「司法の独立」を全力で守り抜こうとした裁判長がいたわけだ。上級審で覆されるのは必至だが、世の中、捨てたもんじゃない、と私は思った。
もっとも、翌朝に気分は暗転した。原因は自分の勤める新聞社の社説。「認識も論理もおかしな地裁判決」との見出しで、「『指導』がなくてもいいのだろうか」「(日の丸・君が代は)すでに国民の間に定着し、大多数の支持を得ている」などと書き、「こうした判決に至ったのは、『少数者の思想・良心の自由』を過大評価したせいだろう」などとまとめていた。
世の中が右へ動けば裁判所も右へ?!
新聞の社説は、論説委員会の議論をもとに書かれる。論説委員は編集局や部長やデスクを歴任したベテランで、政治、経済、国際問題などのテーマによって、主にその分野を長く取材してきた委員が執筆する。
それにしても、この曲解ぶりはひど過ぎる。国旗国歌法の法制化に当たり、九九年の国会で当時の野中官房長官は「起立する自由もしない自由もある」と答弁している。日の丸・君が代に違和感を持たない人が多数派だからといって、強制して当然とは言えない。思想・良心の自由が少数者のためのものであることは、民主主義のイロハだ。「反対だけど、ローンがあるから仕方ない」など、脅しで起立させられた教職員を集めた学校で、まともな教育が成り立つ訳がない。
護憲派への口汚い罵りが目立つ「週刊新潮」は、この裁判長と司法修習で同期だったという関係者に「彼は理論派だが、常識にうとい」と言わせている(一〇月五日号)。「我々が勉強していた時代は反戦機運が強かった。今は違うでしょう。彼の場合、その当時の価値観をそのまま引きずっている可能性がある」。
世の中が右に動けば裁判官も右に行くのが当然との暴論で、情けないことだが例の社説のレベルもこれとあまり変わらない。人権や民主主義より「常識」が優先されてはならない。新政権の下、この国が「戦争のできる国」になったとしたら、「私は敵兵でも殺したくない」という良心的兵役拒否者は今回の原告よりも格段に過酷な扱いを受けるだろう。そのとき、社説はどう書かれるのか。
(2007/02/20)