雑草の力、道ばたからの声を国会へ!
はじめに
障がい者や弱い立場の人にとって、生きづらい社会になっています。「障がい者自立支援法は問題だ」という障がい者、親、施設関係者の声にもかかわらず、よく国会で議論もされず、障がい者の自立を阻害するような法律ができてしまいました。
国や自治体の財政難を引き起こしたのは政治家や行政のいろいろな施策の問題です。税金を無駄遣いしている部分や仕組みを棚上げにして「福祉には金がかかる」と消費税増税や保険制度の切りかえを進めるのは納得いきません。
となりの韓国では、障がいをもった国会議員が何人もいて、政治の場で障がい当事者が活躍しています。3月6日には「障がい者差別禁止法」が成立しました。障がい当事者団体を中心とした市民団体の闘いの成果です。
そのようななか、障がいを持った仲間が「伝えるべき所に然るべき人をちゃんと送り込み、みんなで支えたい」という思いを広げることが大事です。
障がいを持つ人、高齢者、子どもの教育や子育ての問題など、それぞれの立場の人が政治の場で意見を表明し、しかも、国会や役所もしっかり耳を傾けるようにならなければ、生きづらい社会を変えることは難しいと思います。
この度、DPI(障害者インターナショナル)障がい者権利擁護センター所長として活躍され、国連の「障がい者権利条約」策定に向けたNGO傍聴団でアドバイザーとして活躍された金ジョンオクさんが、参議院選挙に立候補を予定しています。「誠実で勉強家」と評判の金さん。東京をはじめ、全国で金さんを支える動きをつくっていきましょう。金さんにインタビューしました。(編集部)
インタビュー内容
―お母さんを亡くされたそうですが、どんな思い出がありますか?
オモニ(母親)は父親とともに一〇代後半に日本に渡ってきて、苦労しながら生活をつくりあげてきました。父親は独学で読み書きを学びましたが、母親は学校に行けなかったためか、日本語があまりできず、日本人を避けているようでした。
小学校一年の家庭訪問では、父親が応対し、流暢に話せない母は、自分がみっともないと思ったのか、ふすまの奥に隠れてじっとしていました。その時は、「どうしてちゃんと出てきて先生に挨拶しないのか」と不満でしたが、葬儀の後、そんなことが想い出され、涙が止まりませんでした。幼な心にせよ母を「みっともない」と思ったこと、親孝行できなかったことに悔いが残ります。
―三歳の時ポリオになったと聞いていますが。
その頃はポリオ(脊髄性小児マヒ)がはやっていて、三歳から腰にギブスをはめて寝たきり状態でした。両親は仕事、兄姉たちは学校ですから、昼間はほとんど一人でした。窓からみえる青い空と雲がいちばんの友だちでした。
だから幼稚園・保育園とは無縁で、小学校も一年遅れの入学でした。
「どう生きるべきか」悩んだ青春時代
―小学校にはどのようにして通ったのですか?
近くの小学校の普通学級です。私は六人兄弟の末っ子で、上の姉におぶってもらって通いました。高学年になって、親の判断で医療施設に入りました。学校と併設で一部屋八人の暮らしです。一学年一〇〜一五人のクラスで、障がいをもった子が県内各地からきていました。
ところがある時、おなじ部屋の友だちが「この部屋に韓国人がいるそうだ」と突然言いだしたんです。小学校から金重政玉という通称(日本名)で、日本人として生活していましたが、私のことだと思いました。イジメられるかなという漠然とした不安に包まれ、韓国人という出自を隠した方がいいと思いはじめた最初の体験でした。
高校受験もあって、中学三年の後半には実家の下関に帰り、校区の中学校に通い始めました。一学級五〇人という突然の大集団で、閉鎖的な施設生活の中で身についた自分の感覚と合わず、同級生との会話もかみ合わず、冗談も気軽に言えませんでした。まわりの人にできて自分にできないことが多くあって「見学」することが増える中で、健常者とのテンポの違いが強い違和感になり、言いようのない劣等感と孤立感をもたされました。
結局、勉強も手につかず高校受験にも失敗し、県内にひとつある肢体不自由の養護学校高等部に入りました。私にとって養護学校高等部への入学は、挫折の結果だったと今でも思います。普通中学校での生活で自信をなくし、仮に高校に受かったとしてもやっていける自信はありませんでした。
だから養護学校に入った後、どんなふうに生きていったらよいのか、自分はどんな人間なのかと、ぼんやりした疑問につきあたっていました。
そうこうしているうちに、障がい者としても在日韓国人としても、自分の不安は自分だけの不安ではないし、社会的背景があると思うようになり、差別や人権問題を考ええるきっかけとなりました。「自分はどんな生き方をすればよいのか」――高等部の三年間は、折りに触れて、この問いを考える時期でもありました。
高等部を終えて下関に帰りましたが、定職はなく、重度障がい者の親の会が運営する作業所でタイプライターを打っていました。月収は二〜三万円程度、人によっては一万円も貰えない人もあって、これでよいのかと考えていました。
―東京へ移られたのはどうしてですか。
そのころ、一緒に暮らしていた日本人女性が身重になりましたが、彼女の父親が連日のように電話をかけ、家に押しかけてきて「血がよごれる・家系がくずれる!」「子どもを堕ろせ!」「わしが先に死ぬから後を追ってこい!」と強談判です。韓国人との結婚は絶対認められないということです。彼女はノイローゼ状態で、これではやっていけないと決断しました。
葛飾にある福祉工場で働き始めました。最低賃金は出ますが生活は精一杯で、父親からもらった貯金をくいつぶしながらやっていました。三年後、車いすで入れる公営住宅に入居して、かつかつ暮らせるようになりました。
生活が苦しかった原因の一つには、国籍要件撤廃時に救済措置が執られなかったために障がい基礎年金を貰えてないという在日無年金問題もあります。子どもは、今一八歳で好きな勉強に頑張っています。
差別をなくす取り組みがライフワーク
葛飾の生活が落ちついてきて、「運動に関われる仕事がいいな」と考え始めていました。九二〜三年当時は、在日の無年金障がい者が各地で声をあげ、当事者を支援する会ができていった時期で、東京でも私のことをきっかけに 民団の葛飾支部や日本人支援者と共に、在日外国人の無年金問題に取り組むようになりました。
そんなとき、在日韓国・朝鮮人の差別撤廃に取り組んでいる全国的なネットワーク(みんとうれん)から、専従スタッフに誘われました。そこで三年くらい、戦後補償や社会保障の国籍差別、就職や教育問題などに取り組みました。
勉強になりましたが、その団体の仕事を辞め、どうしようかなと思っているとき、DPI日本会議が「障がい者権利擁護センター」を作るので、担当者を探していると聞きました。タイミングが合い、スタッフとして採用されました。九七年のことです。
障がい者権利擁護センターの仕事は、当事者や家族・関係者から差別や納得できない扱いなどに対する相談を受け、何が差別的扱いなのかを明らかにしながら、相手側と話し合っていくことです。 これがベースになって、障がいを理由とする差別をなくすための法律や制度を作っていくことが、自分のライフワークだと思うようになりました。
国連の「障がい者権利条約」の仕事を通して、民主党議員の方から国政への参画を勧められました。人生の分岐点に立っているという認識もあり、積極的に考えるようになりました。
差別や人権侵害を受けた悔しさ・憤りが原点
―民族名で立候補するのは、ジョンオクさんが初めてです。民族名を決意された理由は?
国政に出ていくためには、日本国籍取得が前提でした。しかし、日本国籍だから通称名(日本名)でというのは、私の民族的自尊心が許しませんでした。これが第一の理由です。
第二の理由は、生いたち・成長のなかで民族や国籍を隠してきたことへの葛藤から、民族名を自然に表現できる自分を確立したかったからです。
生活上の事情で通称名(日本名)で生活している在日コリアンの人たちは、七〜八割はいるでしょう。この現実を正面から受け止めないと、本当の多民族多文化共生社会にはなりません。
―最後に、国政に向けた活動の抱負を聞かせてください。
自立支援法を一から作り直し、「障がい者差別禁止法」を実現したい。また、外国人人権法の制定にも取り組んでいきたい。自分が障がい者であること、在日コリアンであること、この二つの当事者性が原点です。差別や人権侵害を受けた当事者の悔しさ・憤りを他のマイノリティーや 多くの人たちと共有しながら、活動をしていきたいと思っています。
(2007/06/02)