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特集:施設から地域生活へ/Tさんの泣き笑い物語

どこで誰と住むか? 自分で決める

「理想と現実のギャップはあって、必ずしも思い通りの生活ができているわけではありません。」こう語りながらもTさんは、施設を出て良かったですか?との問いには、にっこり笑い「良かった」と答えてくれました。Tさんは、大阪府の「重度身体障がい者自活訓練モデル事業」を利用し、昨年三月に施設を出ました。現在グループホームで生活しています。同事業は、入所施設から出て地域生活を送るきっかけを作る制度で、適用は三年間です。

Tさんは〇三年からこの制度を利用していましたが、受け入れてくれる事業所が見つからず、〇五年三月、残り一年となって、ぷくぷく福祉会生活支援部門に依頼が来ました。

地域生活に移行するには、越えなければならない多くの課題があります。Tさんの場合、夏と冬、体調が崩れる不安に加え、言語障がいがきついので、スタッフとのコミュニケーションがとれるのか? 夜中、一人の時にトイレに行きたくなったらどうするのか? 等々の不安があり、決断に時間がかかりました。でも、支援スタッフと相談しつつも自分でトイレの設計をし、部屋のインテリアの配置などもパソコンでイメージを書いて提案するなど、熱意を持って新しい生活を創り出してきました。

入部香代子さんがTさんに話を聞きました。Tさんは、「ほかの障がい者を力づけられるといいし、自分自身も励みになるから」と取材に応じてくださいました。(編集部)

小さな文字で綴られた半生記

阪急吹田から吹田大橋に向かう道路沿いに、五階建のビルがあります。決して大きな建物ではありませんが、ここに障がい者の作業所(作業屋)と介護派遣事業所(吹田ヘルプ協会アル)や、グループホームがあります。生活支援センターで相談業務や自主学童保育などの取り組みもあります。私はここでピア・カウンセリングを担当しています。カウンセリング学校で訓練は受けたものの、本番は本当に難しいです。

私がTさんと初めて会ったのは二月の寒い日でした。本人の許可を頂いてTさんのことを紹介したいと思います。

Tさんは、五八歳。脳性マヒの後遺症で全身に硬直が起こり、声も自由にでません。言語障がいがひどくて一回では聞き取りにくく、緊張すると硬直が増し言葉が出ません。両手は自由に動かせず左手の指だけで電動車いすを操作しています。自分の生きて来た過程をパソコンで長い間かけて書き貯めてきた冊子を持って来てくれました。冊子は、A4用紙七〇枚くらいに小さな文字でぎっしり書かれていました。

家族の愛を感じながら育つ

Tさんのご両親は、父親が二一歳、母親が一四歳の時に結婚したそうです。お兄さんと二人兄弟です。父親が病弱で仕事ができないため、お母さんの針仕事で家計を支えていました。

Tさんは、一九四九年に大阪市で生まれましたが、八ヵ月という早産で保育器に入りました。産道を通って出た時は大きな声で泣いたそうですが、すぐに呼吸困難になり、その後も一〇回位、呼吸が停止しました。今以上に医師が少なく、近くの診療所の医師に助けられました。そんな状況に母親のショックは大きく、お乳が出なくなってしまいました。

哺乳瓶もだめで、パンを牛乳につけて食べさせてもらいました。生まれて八ヵ月目に高熱が二日間続き、これが原因で障がいをもったそうです。

Tさんは、五歳まで自分では何もできませんでした。太ももでいざっていましたから、度々後ろにこけて、頭をぶつけていたそうです。その頃のことをTさんは次のように回想しています。「障がいがある僕を育てる母親の大変さをずっと感じていました。障がいをもって生まれ、父や母、年の離れた兄の愛情こもった介護を受け、すべての愛情を感じながらの生活を送っていました」。

「学校へ行きたい!」

Tさんが九歳の時。いつも乳母車に乗って家の玄関前に出ていました。外を通る人たちと触れ合い、道路の反対側にある女学校の生徒さんが通るのを楽しみにしていました。

そんな女生徒の一人が、声をかけてくれたりお菓子をくれたりと、とても心を和まされました。いつのまにかそのお姉さんを大好きになっていたTさん。めがねをかけたやさしい人でしたが、少しおてんばなところもあり、そんなお姉さんに憧れたそうです。「淡い初恋」とのこと。早い初恋ですね。おませさんだったようです。

しかしTさんは、障がいゆえに就学免除となります。私も同じですが、日本国憲法が謳う教育を受ける権利(二六条)から外されたのです。

Tさんは、どうやって勉強したのでしょうか? Tさんの先生はテレビでした。NHK教育テレビの小学校一年生から六年生の番組を見て、文字や計算を覚えたそうです。

私もそういう人を知っています。寝たきりで言語障がいもひどく、全身に硬直があって、二四時間介護が必要です。彼もNHKの教育番組を見て文字や計算、そして、社会の仕組みなどを学んだそうです。二〇歳過ぎまでテレビだけが友達だったといいます。まわりの人は、彼がしゃべれないと思い込み、何も理解できない子として育てられました。現在では教育大学の講師を勤めておられる方です。

Tさんは、「学校に行きたかった」といいます。友だちが欲しくて外に出ると、「おもしろい顔やなぁ」「大きいナリして、乳母車に乗っているなんておかしいで」「ここまで歩いて来いや」と、子どもたちが投げるのはTさんをなじる言葉ばかりでした。挙句の果てに、石やお菓子の空箱を投げつけられました。

Tさんには、悔しい、哀しい思いを持って行く場がありませんでした。「学校へ行きたい。歩きたい。走りたい。なぜ、こんな身体なのか!」。「何度も泣いて諦めた」といいます。

母の苦労と強さ自立への芽生え

Tさんは、病弱の父の看病に加えTさんの介護もしていた母の身体のことがとても心配でした。父が入院し、母もいないある日、自分でトイレに行こうと思い実行しました。トイレに入り、便器にまたがり、無事にトイレができました。一人でできた事がとても嬉しくて、母の帰宅後すぐに報告すると、とても喜んでくれました。以降、母の負担も軽くなり、Tさんの気持ちは晴れ晴れでした。一九歳の時のことです。Tさんは次のように回想しています。

「毎日、何でも練習をしてきました。トイレに行けるようになったのはその成果です。『少しでも母親の手を借りずにできれば…。』そんな思いで練習を重ねました」

Tさんが生まれた時代は敗戦直後で、食物も何もない厳しい時代でした。そんな中での子育ては大変です。私の母親も食料不足のために母乳が出なくなりました。母は、私に配給の粉ミルクを飲ませるために、列に並んで私を育ててくれました。

当時は、障がいのある子どもが産まれると「村八分」にされ、嫁は家族からもいじめらました。障がいある子どもを産んだのは「嫁の責任だ」と、多くのお母さんは、大なり小なり、厳しい女性差別と障がい者差別に立ち向かわなければならなかったのです。

障がい者は、いまだに家にとじこめられています。あるいは施設に入る事を迫られます。このことが差別です。

Tさんは、二年前に施設を出てグループホームに入り、世話人やヘルパーの介護体制を敷いて地域で生きていこうと頑張っています。応援してください。(入部)

(2008/05/10)



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