リレーエッセイ「バリアフリーにかけた人生」〜村上博
熊本のバリアフリーのまちづくりに情熱を傾けた一人の建築家がさる三月一日、五五年の人生を全力疾走で駆け抜けるように逝ってしまった。
一級建築設計士・白木力さん。昨年一一月中ごろ、電話先の白木さんは淡々とした言葉で、自身が余命三ヵ月のガン末期であることを伝えた。「えっ…」と、息を飲んだ私。しかし、その時、白木さんは、癌との戦いを力強く宣言し、必ず生還するとの確信に満ちていた…。
私が「ヒューマンネットワーク熊本」、白木さんが「バリアフリーデザイン研究会(バリ研)」の事務局長として活動を通じ繋がりが強まった。選挙のたびに投票所のバリアフリー化の申し入れを行ったり、市民会館の改修など、多くの事例に惜しみなく時間を割いてくれた。車の両輪として活動し、お互いの悩み苦しみを共有し合う親友であり、同志だった。
日本発の低床電車導入を実現
当時ヨーロッパでは、全ての利用者にとって使い勝手が良く、また環境に優しい乗り物としてノンステップ型の電車やバスが主流となっていた。バリアフリーと言えば当時、アメリカに目が行きがちだったが、ヨーロッパの仕組みの方がはるかに先進的だった。その様子を周囲に説明してもイメージしてもらえないもどかしさ。「もはや行って実際に乗車体験するしかない」との結論に至ったのは、九三年一一月、バリ研の例会後に白木さんとMさん、それに私の三人で行った夜更けの立ち話だった。そして九四年六月に次いで、九六年六月にも訪欧が実現。ついに九七年八月、日本初の低床電車が導入された。
かけがえのない熊本の大事な財産
バリアフリーに配慮した街中の建物を自分たちで探し出し、勝手に表彰しようというアイデアにまっさきに賛同してくれた。実施要項づくりやプレス発表の段取りは、ほとんど白木さんが受け持った。第一回大賞はキャンパスのバリアフリー化を進めていた熊本商科大学(現・熊本学園大学)。表彰式の様子や学長の顔写真入りのインタビュー記事が翌日の新聞に大きく取り上げられ、二人で喜び合った。
柔和な笑顔、常に障がい者の視点に立ち、正義漢の白木さん。いつ本業の仕事をしているのだろうと不思議だった。UD(ユニバーサルデザイン)ではなく、バリアフリーにこだわった白木さん。かけがえのない大きな存在だった。心から合掌。
(2008/05/10)