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特集:施設から地域生活へ どこで誰と住むか? 自分で決める!

Tさんの泣き笑い物語2

前回は、Tさんの幼い時のことを書きました。今回は、Tさんが作業所を経て入所施設に行き、地域生活を始めるまでを紹介します。Tさんは、1949年大阪生まれの59才。生後8ヵ月目に高熱が続き、重度脳性マヒとなりました。

両親・兄弟の愛情のこもった介護を受けながら育ちましたが、就学免除とされます。「学校へ行きたい」との強い思いがありましたが、「母親の同伴が必要といわれ諦めた」と言います。

障がい者は、少し前まで地域に出て生活をするなんて考えられなかったのです。家族の働き手がいなくなると、すぐに入所施設へ。入所施設が満杯の時は、病院や老人ホームに預けられ、空きがあるまで待機でした。

初めての給料

病弱の父の看病に加え、Tさんの介護もしていた母。Tさんは、母の体がとても心配で、1982年、33才の時に作業所へ行くことを考えます。

当時はまだ無認可作業所で、古い建物でしたが、「みんなが庇い合いながら頑張って作業をしている」姿を観て、その日の帰りに申し込みました。

不安もありましたが、翌83年1月から通所し始めます。作業所では、タオルセットと、ボルトにナットをはめる作業を行います。初めてでしたが、すぐに慣れ、2月10日には初給料をもらいました。「自分で働いたお金だったので、一生忘れられない嬉しい気持ち」と回想しています。

8月末には、2泊3日のキャンプも経験しました。仲間50名と共に観光バス2台に分乗して、琵琶湖へ。水泳・夕食作り・交流会・キャンプファイヤーなど楽しい思い出が書き綴られています。

その後も、Tさんは生産係・役員・学習会などを頑張ります。役員会のテーマは、余暇活動・新聞作り・キャンプの企画からボーナスについてなど多岐に渡ります。運営にも関わり積極的だった様子が伺えます。

タイプライター

「タイプライターをやってみないか」。職員から薦めがあったそうです。ひらがなタイプを貸してもらい、生産高や仲間の様子を打ち始めました。「初めての割にはうまいね」という励ましもあり、市役所にタイプ支給を申し込みました。給付の用具は、その後ワープロ・パソコンに変わり、Tさんの重要な表現手段となりました。

現在、言語障がいがきつい人にとっては、パソコンが大きな役割を果たしています。Tさんは、自室の大画面テレビにパソコンをつなげ、介護の人に1日の予定を書いて伝えています。タイプライターとの出会いは、Tさんにとってラッキーなことでした。

当時、民間の作業所は、少なく、重度の障がい者が通える所はあまりありませんでした。殆どが在宅か入所施設です。作業所に通うことで母親は、しばし介護から解放され、Tさんには、真剣に向き合う人間関係ができました。多くの大切な経験を得たと言えるでしょう。

私の友だちは、施設にいても「私のせいで姉が結婚でけへん」と嘆き、自殺を間一髪で止めた事もあります。彼女が作業所に行っていたら、ここまで思いつめることはなかったでしょう。

2次障がい

1985年末、身体の変化が起きました。2次障がいです。指の感覚がなくなり、身体の動きも鈍くなり、仕事も生活もできなくなりました。

病院では、首の骨がずれて神経を圧迫し、手足の痺れが起きているとの診断でした。左肩と右足の脱臼、背骨の湾曲も見つかったため、リハビリ訓練施設に通うことになりました。

「作業所を休んだら」という職員もいましたが、Tさんは通い続けて良かったと言います。家にいたら、「何でこんな身体になってしまったのか」とか「早く死んで生まれ変わりたいな」などと考えてしまい、気持ちが落ち込むからです。

訓練と投薬で少しずつ機能も回復し、車イスにテーブルを付けて、作業も再開しました。作業がはかどらない時でも、「次は何の作業をしようか?」と聞いてくれる仲間もいて、「こんな僕でも役に立っているんだなぁ」と勇気が湧いてきました。体が動かなくなっても仲間が僕のことをこんなに思ってくれたことはとても嬉しかった」というTさん。

家族や仲間達の励ましに感謝し、「今ではつくづく生きていて良かったなぁと思う」そうです。

脳性マヒというのは人にはわからない身体の動きをするので、大変苦労します。私も2次障がいが2年前から出ています。すごく辛いです。首の痛みに加えて、手、足の痛み。動けなくなる自分との格闘です。防ごうと思えば無理をしないことですね。(うぅん、違うかな?)

作業所との別れ

88年5月、共同作業所全国大会が京都で行われ、Tさんは、「2次障がいをどう考えるか?」というテーマで、自分の体験を発表しました。他の人の経験も聞き、同じ苦しみを持つ仲間の意見はたいへん勉強になったといいます。

この頃、作業所の所長さんから施設入所を勧められ、Tさんは、「嫌でたまらなかった」そうです。作業所の仲間や家族と別れねばならないからです。それでも母親が歳を取り、世話をするのがしんどくなってきているのはわかっていましたし、兄弟も働いているので母親のような世話はできません。「家に近い施設だから、よく考えるように」という所長さんの意見は重く響きました。

「母には、苦労ばかりかけてきたから、ここらで僕の世話から解放してあげよう」と思い、不安な気持ちは残しながらも、入所を決めました。

10月に施設入所が正式に決まり、お別れ会に参加したTさんは、挨拶文を予めワープロで書いて、みんなの前で職員に読んでもらいました。

「作業所に入って本当に良かったと思います。この5年と9ヵ月間、僕みたいな重い障がいを持っている人でも働けるんだなぁと思ったし、いろんなことを教えてもらったり、経験させてもらって、たいへん嬉しかったです」

地域生活への準備「ナイター観たいねん」

2003年からTさんは、「大阪府地域移行促進事業」を利用しました。はじめの2年は「自立講座」に参加するぐらいで、実際に施設を出る体験は受入れ先が見つかりませんでした。あと1年という時に、「ぷくぷくの会」と出会いました。

ぷくぷくの生活支援部門では、生活支援事業と介護派遣、グループホームが連携して活動しています。施設入所者のガイドヘルプ、ピア・カウンセリングや生活全般の相談などをあわせながら、Tさんの支援をすることになりました。

 05年4月、まず自立生活訓練室とその近くの商店街などの見学。トイレを工夫したり、入浴方法を考えたり、部屋で使うものを選んだり、どう時間を過ごすかなど、実際に宿泊体験をするために必要なことを準備していきました。

5月頃から週1回の宿泊訓練。好物の握り寿司を買い物して食べる、夜中のプロ野球ニュースを観る!(施設では夜9時か10時には就寝)などTさんの希望する過ごし方でスタート。しかし、ご飯を買いすぎて残したり、寝不足になったりという面があり、栄養や量を考えて食事することや生活のリズムをあまり崩さないようにすることなどをスタッフからアドバイス。 7月は体調不良で休まれ、8月活動再開。宿泊訓練の日に支援スタッフといっしょにプロ野球ナイター観戦に出かけました。ナイターは施設から行けないので、30年ぶりの野球観戦とTさんはたいへん喜んでおられました。共同生活も実感できるよう、グループホームで他の入居者と食卓を囲んだりもしました。しかし、施設を出て生活することへの気持ちは薄れてきて、活動をやめたいと話されるようになります。 言葉が伝わりにくいこと、自分が高齢なこと、昼間に何をしたらよいかなど悩んでおられました。関わるスタッフとの人間関係や、無理のできない体なので夏と冬には体調を壊したらどうなるか…、1人で夜中にトイレに行きたくなったら…などなど。06年に始まった自立支援法では制度が変わり不確かなことばかりで地域生活の見通しも組み立てられず、さらに不安が大きくなりました。

Tさんは、施設を出るのに決断をだいぶ迷いました。不安が出てくるごとに一つずつ具体的に話をして解消してきました。スタッフとお互いの信頼関係も築きながら話しを重ねてきました。

地域での自立

施設を出て1年たって、「出てよかった?」ときくと、Tさんは「良かった」と答えられました。支援スタッフはその言葉にほっとしますが、反面、現実の生活は厳しく、なかなか思い通りの生活ができているわけではないと言います。これからの課題もたくさんあります。

Tさんは、すごくバイタリティーがあって、スタッフはとても助けられます。パソコンで、自分のトイレの設計をしたり、部屋のインテリアの配置を提案したり、情熱のある人です。

私は、はじめTさんの言語障がいがきつく、言葉があまり通じなくて困りました。でも、そのうちに何となく通じるようになりました(うれしい)。私の課題は信頼関係をいかに作るかです。(がんばります)。

「まねき猫通信」に、Tさんの施設を出て地域で生活を始めるまでを載せてもらったのは、他の障がい者の方の自立へのきっかけになって欲しいと思ったからです。また、少しでも多くのみなさんに、障がい者のことを知ってもらうきっかけになればうれしいです。(入部)

(2008/06/10)



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