新聞の作り方-死を報じる難しさ 石塚直人
必要不可欠な訃報の確認作業
「マスコミの常識」は非常識。インターネットでニュースを探っているうち、こんな見出しが目に入った。児童文学者の石井桃子さんの死去(4月2日)で、某新聞文化部の記者が午前1時半に確認の電話をかけてきた、あまりに非常識、というわけだ。
記事は産経新聞「正論」からの転載で、筆者は阿川尚之・慶応大教授。石井さんは自分の死を1ヵ月間公表しないよう言い置いて亡くなったが、それがどこからか漏れ、関係者は夜中に電話で振り回された。「総理大臣ならともかく」101歳の文学者でその必要があるのか、と氏は書く。
人の死は厳粛なものであり、この種の批判はとても多い。しかし、私もその立場なら同じことをするだろう。石井さん自身の思いとは関係なく、この国の文化に対する貢献度からして、彼女の死は大きなニュースだ。各社とも、万一の事態に備えて主な経歴などをまとめた予定稿は準備している。それを紙面に組み込むためには、誰かから「間違いありません」のコメントを取るしかない。
まだ生きている人を「死去」と誤報した例は多く、たとえ他のメディアが報じていてもそれだけで後追いする訳にはいかない。今回のように緘口令が敷かれていれば、確認作業も時間がかかる。それでも粘り強く取材する記者でなければ、阿川氏の言う「当事者が書かれたくない不都合な事実を報じる」ことなどできない、と私は思う。
死者への敬意は払われているか
後期高齢者医療を巡り、厚労省が捏造に等しい手法で「低所得者の負担が減る」と断言した件などは典型だろう。訃報の確認と不正追及は同じ根っこを持つ。ただ、そうした実態を部外者に納得してもらうことの難しさも、一方では痛感せざるを得ない。
死を報じるとはどんなことか、改めて考える。人には固有の歴史と価値があり、死に際しても「個」として敬意を払われねばならない。秋葉原で8日、無差別殺傷事件により7人が殺された。中国では地震で、ミャンマーではサイクロンで何万という人が亡くなった。アフリカでは毎年、500万人の子どもが貧困や医療の不足で命を落としている。
秋葉原の犠牲者がその名とともに追悼されることは、事件の再発を防ぐためにも一定の力になるだろう。それはともかく、アフリカの何万という死者が単なる数でしか報道されないのは、やはりおかしい気がする。たとえ1人でも、具体的な名前と彼や彼女が生きた証が知りたい。広大な大陸を1人か2人の特派員でカバーする日本のメディアの現状は、個々の記者の努力のレベルを超えて、何とかならないだろうか。
(2008/07/10)