リレーエッセイ「悲しい出来事」〜佐野武和
25年前、滋賀の故郷で私は、作業所を作ろうと焦っていた。地域には親の会による作業所ときょうされんの理事長を輩出する所謂民主的な?作業所のみで、ゼロからの出発であった。これに風穴を空けるような実践をもくろむも、仲間がいなかった。三里塚や水俣の映画会をやっては益々孤立し、同級生から「暗い映画ばっかりや、今度は寅さんの映画がええなぁ…」と去られてしまった。
そんなとき松井太郎に出会った。田舎の立派な家のそばに建つ農機具小屋に、寝たきりの母親と二人で暮らしていた。その立派な家には、松井太郎の兄貴家族が四人で住んでいた。
「一緒に作業所やろう」と誘うと、「おかんをみとらなあかんからダメや」と寂しそうに応えた。脳性麻痺を患いながら、「時間のある時には野菜を作りに行くんだ」と、小屋の土間にはジャガイモが転がっていた。
その後母親が死んで、彼は作業所に通うことになる。帰りの送迎車を途中下車してスーパーで惣菜を買い込んでは、再び送迎車に乗り込んで、あの農機具小屋に帰って行った。
ある日、ラーメンの汁を足にかぶって長期に休んだ。様子を見に行くと全く処置されておらず、近くの民生委員と急遽病院に連れて行き、入院となった。
その後も不調で入所施設に2年近くロングな「ショートステイ」。おしめ、寝たきりと、急激に生活力を失い、次々と襲ってくる病魔に勝てず、この春55歳で逝った。
障がい年金をコツコツ貯めていた彼。「俺が死んだら寄付する」との申し出を丁重に断った。その貯金がどうなったかは知らないが、彼のために使われなかったことだけは推察できる。
彼は、コロッケをよく買っていた。買い物後、車に乗り込んでくる彼に「またコロッケか?」と聞くと、「ウスターソースをだぼだぼにかけて食うとうまい」と応えた。「それ、椎名誠のエッセイに出てくるなぁ」と言うと、「そうか」と嬉しそうにしわくちゃの顔で笑った。
差別がなくならない
奈良にある小さな家具工場に30年前、長崎から集団就職で知的障がい者がやってきた。靴下の縫製が地場産業であるその町の一角で、操業していた工場が倒産した。社長が、「寮にいる10数人の障がい者を引き取ってくれ」と役所を訪ねたことから事件は明るみになった。
10年以上掃除をしていないとみられる劣悪環境の寮の実態や、無給状態で小遣いが渡され、障がい者年金がすべて社長とその家族によって搾取されていたことがわかった。
社長とその家族の一部は賃金不払いと横領で逮捕され、地裁で結審を迎えた。社長たちは「事実を認めるが、だれも手を出さない障がい者のために倒産しないようにとの思いだった」と酌量を求めている。
オンブズパーソン活動強化のため、同志を求めている。ネットワークも必要だ。悲しみや怒りをバネに少しでも前に進めたらの思いがつのる。しかしいっこうに悲しい出来事がなくならない。差別がなくならない。
(2008/08/11)