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 オモダカ科の植物。葉は矢尻形で鼻が高い人の顔のように見えるので「おもだか(面高)」 。夏に白い3片の花が輪生する。果実は球形で、初冬になると枯れて大量の種子がとれる。地下茎10数本が地下から伸び、その先端部分がふくれて塊茎となりスイタクワイができる。

吹田の生き物と人H-スイタクワイ 高畠耕一郎

なにわの伝統野菜 スイタクワイ

「吹田」という名前の付いた植物があります。

日本で一番有名な植物図鑑である「牧野植物図鑑」にも載っているスイタクワイです。私の知っている限りでは、「スイタ」の名前が付いている植物はこれだけです。

学名は牧野富太郎博士(文久2〜昭和32年)の命名で、学名をSagittaria trifolia L-forma Suitensis Makinoといいます。「スイテンシス」は吹田に産するという意味です。

クワイとは漢字で書くと「慈姑」で、お正月の重箱やおめでたい席での料理には、縁起物としてよく入れられています。クワイの小さな球形から先のとがったくちばし状の芽が伸びている姿をとって、「芽(目)が出る」から「めでたい」として、縁起がいいとされています。

「スイタクワイは小粒でおいしい」との評判は江戸時代からあり、江戸後期の幕吏で、狂歌師・戯作者として有名な大田南畝(別号、蜀山人)が大坂で食べた上方料理のうまさを回想した狂歌が残っています。「思いでる鱧の骨切りすり流しすいたくわいに天王寺蕪」。また、『大坂名物番付』では関脇になっています。

京都の御所にも毎年吹田から献上され、明治維新まで約200年も続けられたそうです。現在では、夏の吹田まつりパレードで毎年、献上行列として再現しています。私も何回かその行列に白い衣装を着て参加したことがあります。

絶滅の危機越えて

今や「なにわの伝統野菜」の一つとして知られ、吹田の田んぼの畦や市の公園、小中高校の校庭、個人宅の庭でも栽培されるようになりました。しかし、昭和初め頃からは宅地開発や農薬の多用などで減少し、昭和30年代(1960年ごろ)は絶滅の危機にあったのです。

昭和60年(1985年)に「吹田クワイ保存会」が結成され、今では一部農家が生産もするようにもなり、市場販売も行われるようになりました。また、普及活動も盛んになり、「吹田くわいネットワーク」で学習会が継続的に続けられたり、市や大阪学院大学の鎌苅宏司教授による「吹田くわいイベント」が行われています。

5〜6年前に私たちの環境グループで、吹田の元農家から休耕田を借りて、スイタクワイを育てていたことがあります。繁殖力が強く、種子でも掘り残したクワイ粒からでも、夏になるとどちらも同じ大きさに育ちました。12月中旬に冷たい湿地に入り、中腰になって素手でクワイの粒を探しなら収穫するのはとても大変でした。

現代風の食べ方も

元京都大学教授の阪本寧男博士は、昭和30年代にスイタクワイのことを調査・研究され、昔の江坂付近の農家では、このスイタクワイは、田んぼや畑で栽培されていたのではなく、畦などに自生していたものを地元の農家の人が必要時に掘って食べたり、一部を出荷していたにすぎないと考え、野生と栽培の中間の「半栽培植物」として育てられてきたと論文に発表されました。栽培種なら同じ遺伝子を持ったものしかできません。しかし、スイタクワイは多様な遺伝子の形態を持っている植物なのです。スイタクワイを半栽培植物の貴重な例として示されました。

先日、この阪本先生を私たち「吹田くわいネットワーク」の学習会にお招きして勉強会をしました。昭和34年(1959年)頃に、南吹田の主婦木下ミチさんからスイタクワイの状況を詳しく聞き、記録に残して写真も撮っておられます。これが、今となっては吹田市にとって貴重な資料になっています。

吹田市が平成15年(2003年)に「吹田くわい料理コンテスト」を実施し、現代風の食べ方を紹介したり、地元のパン屋さんや和菓子屋さんがスイタクワイを使った商品開発もしています。これからスイタクワイは、ますます研究され、地元で愛されて、食品としても多様なものが商品になっていくことだろうと思います。

(2008/12/10)



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