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▲松葉杖で子どもたちと語り合う牧口さん。84年、吉備高原のびのび小学校。(「そよ風のように街に出よう」編集部提供)

特集:「ちがうことこそええこっちゃ」牧口一二

就職活動での挫折…

「障がい者がどんどん社会に出て行くということをやりたいな」―こう語る牧口一二さんは、1937年生まれの72歳。楠敏雄さん(80ぴきめ)、河野秀忠さん(81、82ひきめ)らとともに、日本の障がい者解放運動を引っ張り続けてきたおひとりです。グラフィック・デザイナーとしても活躍され、障がい者の社会進出を自ら切り開いてこられました。講演活動やテレビ出演等で「おなじみ」という読者の方も多いと思います。

講演で出会った近所の子どもたちに声をかけられたら、喫茶店に招いていっしょにおやつを食べたりという、気さくなおじさんでもあります。「目立ちたがりで、寂しがり屋で単細胞」とおどける牧口さんは「もし障がいがなければスポーツ選手になってた」と語ります。

そんな牧口さんに運動に関わることになったきっかけや、様々な活動のベースになっているものの考え方、これからやりたいことなどをうかがいました。3号にわたってお届けします。

牧口さんは、美術学校を卒業後に全く就職できませんでした。挫折を経験した牧口さんを支え続けたのは「世界一のお母さん」でした。(文責・編集部)

就職活動での挫折「世の中、甘くない」

この世界に入ったきっかけはというと、「青い芝の会」(脳性マヒ者の当事者組織)の運動との出会いでしょうね。もちろん、障がい者になったことはきっかけのひとつです。ただ、物心ついた時からこんな身体だったので、障がいは割りと素直に受け入れていたんです。

小・中・高と進み、美術学校を卒業したのですが、全く就職できませんでした。障がいが理由だったと思います。松葉杖で面接に行きましたが、どこも相手にしてくれませんでした。1年半で54社受けて全部落ちました。学校が紹介してくれなかったので、新聞の求人欄で応募しました。

54社目の社長が面白い人で、「お前、松葉杖ついてるから落ちてるんやで」って言うんです。ぼくはムカッときて言い返したところ、「ああ、元気やないか。雇うたる」と言われて、喜び勇んだんです。ぼくは杖をついてることなんてたかがしれてると思っていましたが、就職活動をする中で、世間の壁は相当に厚いということを徐々に感じていきました。面接には美術学校での作品を持って行くんですが、ほとんどの会社は作品を見もせずに、障がいのことばかり聞くんです。どれくらい歩けるか?とか、荷物が持てるか?とか。

「おかしいなあ」と思いましたが、それでもとにかく、雇ってくれるところが見つかるまでやろう、と決めていました。なにしろ、「就職しなかったら世間はぼくを一人の人間としてみてくれない」と思っていたんです。

54社目の社長は「学校出たてがすぐに使い物になるほど、世の中は甘くないぞ。明日から何をするんや?」と聞かれたんですが、ぼくはその意味がわからなかったんです。社長は「使い走りという仕事を知ってるか?」と言われた。つまり雑用係です。朝は30分くらい早くに来て掃除をする、先輩のデザイナーにお茶をいれる。銀行にお金を出し入れに行く…。「当面のお前の仕事とはそういうことなんだ」と、丁寧に教えてくれたんです。

ぼくは、そういうふうに正直に話してくれる大人に出会ったのはほとんど初めてでした。それまでに出会った大人はみんな、「君は足が不自由だから、早く手に職をつけなさい」と言うだけだったんです。それでぼくもデザイナーという道を選んだんです。

(2009/06/10)

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