ぷくぷくの会ホームページ

▲4人が出会ったのは、1970年代後半。以降、30年以上の親交が続いているそうです。

特集:座談会@「差別とバリアの時代を生きて」

はじめに

関西の障がい者運動草創期を創り、30年に渡って引っ張り続けてきた楠敏雄さん、河野秀忠さん、牧口一二さんの座談会をお届けします。個性豊かな3人が、何に怒り、どこでつながり、何が違うのか?また、今後の障がい者運動にとって何が必要なのか? 語って頂きました。支援制度も何もなく、あるのはバリアーと差別だけというなかで、仲間と出会い、社会と全身で格闘し、今、自立とは何か?を問いかけます。(文責・ 編集部)

運動の原点

入部(編集部):3人の方が、合流したのは養護学校義務化反対運動(78年阻止共闘結成)だそうですが、各々どういうきっかけで障がい者運動に入っていったのか?聞かせて下さい。

牧口:70年代の中頃といえば、ボクはやっとこさ仕事に就き、なんとかデザイナーとして仕事も順調になってきた時期でね。この頃、障害児が親に殺されるという事件が頻発したんよね。子どもの将来を悲観した親が自らの手で子どもを殺すのです。これが無念でしょうがなくて、なんとかしたいと思ったのが動機で障害者運動に。

当時のボクは、障害者の「役立たず、」「厄介者」というマイナスイメージを変えていけば、肉親による子殺しも少なくなるのではないかと単純に発想していました。

:僕は、1964年に盲学校から大学に入って2年くらいは、「健常者に負けずに頑張るんだ」と、点字の辞書を繰りながら、徹夜も厭わず必死に勉強していました。でも自分の努力だけではどうやっても突破できないバリアーがあることを思い知らされます。日常的な差別にも直面し、「こんなに勉強したって何になるのか?」と、むなしさを感じていました。そんな時、学生運動が始まり、大学批判を始めます。彼らの主張に共感をおぼえ、デモに参加したのですが、デモの学生が驚いて、「危ないですから、脇に寄ってください」と言われました。大学解体を叫ぶ連中でも障がい者を排除するのか!と、失望しました。僕は、その後も全共闘として学園改革運動や部落解放運動など様々な社会運動に参加しますが、そうした社会運動の中ですら障がい者が排除されていく現実を見て、徐々に障がい者運動に重点が移っていきました。

河野:ボクは、70年安保闘争の敗北後、障がい者のOさんと出会い、72年に共同でドキュメンタリー映画・「さよならCP」の上映運動を始めたのが最初です。ですから、ボクの中にはまず「社会を変える」というのがあって、その革命に接近する方法を模索している時に、障がい者運動に出会ってしまいました。当時のボクには、「福祉」という考え方はなく、階級闘争と人権のために闘うという立場でした。

ところが「愛と正義を否定する」という辛辣な行動綱領を掲げて登場した「青い芝の会」(脳性マヒ者当事者組織)の運動は、それまでの価値観をひっくり返すほどのものでした。彼・彼女らの生き方に触発されながら、もう一度、平等とは何なのか? 働くことの意味を考え、今も考え続けています。

「さよならCP」の上映運動は成功しましたが、ヘルパー制度なんて影も形もない時代ですから、施設や家庭から出たいという障がい者の介助と運動でバタバタ忙しく動き回りながら、 優生保護法反対運動(74年)、養護学校義務化阻止闘争(79年)などに取り組みました。

牧口:ボクも学生運動の影響は受けています。高校で別棟の図書館にバリケードを張ったりしました。学生自治会の議長をやっていたので「安保反対」を叫んだりしてね。でも、その当時、安保に反対するのは90%以上で、賛成する5人くらいの小グループがいて、こいつら凄いなと思ったのを覚えてるな。

(2009/10/12)

WEBは抜粋版です。すべて読みたい方は購読案内をご覧ください。



1999 pukupuku corp. All rights reserved.