特集:座談会A:弱者切り捨ての風潮に抗して
はじめに
楠敏雄さん、 河野秀忠さん、牧口一二さんの 座談会2回目です。前回は、各々が、障がい者運動に関わるようになったいきさつなどを通して、当時の社会状況をお聞きしました。制度も何もなく、あるのはバリアーと差別だけ。さらには、完全無視という中で仲間と出会い、声を上げ、行動し、徐々に成果を上げていきました。そうした70年代は、日本の障がい者運動の黎明期と言えます。脳性麻痺当事者組織=「青い芝の会」や「全国障害者連絡協議会」などが次々と結成され、行政への働きかけなども始まります。
80年代はノーマライぜーションという言葉とともに制度が目に見えて形作られる時期です。しかし90年代には、大きな変化を迎えます。(文責・編集部)
青い芝の会の影響
牧口:ボクは、ずっと障害者解放運動の外側を歩いていたのですが、若い人たちが左翼的雰囲気の中で、頑張ってくれているのは、わかっていました。そんな中、「青い芝の会」に惚れてしまって、話をしたいなぁと思うんやけど、仕事のことを聞かれてデザイナーだと答えると、「資本主義の奴隷か!」という言葉で、追い返されそうな気がして、事務所を訪れることができませんでした。
その当時「運動」というのは、体を張り人生を賭ける重いものだと思っていましたから、「仕事を辞めてから来い」なんて言われたらどうしよう。やっとつかんだ仕事だしと、勝手に心配したのでした。それでもあの当時「青い芝の会」の運動はボクの羨望の的やったよね。
河野: 青い芝の会の幹事会では、脳性マヒ者が一人で家から会議場所まで来ることを義務にしていた時期がありました。今から考えると無茶な方針ですが、それをやり切ることで一人一人の充実感や自信を創りあげましたね。
牧口:まぁ、自立心ってとこやね。
河野:「健全者になめられるな!」という気分だったのかもしれません。
楠: 一人で出かけることによって、見知らぬ周りの健全者に協力を求め、巻き込むという狙いもあったのではないでしょうか。こうした積み重ねでヘルパー制度や自立生活支援が徐々に創りあげられたのです。
ただし、そうした改善は、バリアフリーの考え方に基づいたものではなく、障がい者が煩く騒ぐから「対策」として少しずつ進んでいったという以上のものではなかったと思います。
それが、「国際障がい者年」(1981年)を境に「ノーマライゼーション」という横文字も入ってきて、行政が政策として動き出したのが80年代ですね。
河野:70年代は、無茶苦茶なやり方も含めて「やればできる」という実績と自信があった時代です。その基礎の上に80年代の前進があったと思います。
牧口:あちこちで、それぞれのやり方で文句を言い、行動すると、相手もそれぞれのやり方で応えてくる。そんなおもしろさがあった。
楠: 雑誌「そよ風のように街に出よう」が一番売れていたのも80年代でしょう。
その頃、日本でも障がい者の運動が散発的に起こり始めます。国連で世界人権宣言が出されたのが1947年。そこから30年遅れてようやく障がい者権利宣言が採択されました。80年代に入ってようやくノーマライゼーションというまとまった考え方が広まって、制度が形作られていきましたね。
(2009/11/06)
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