特集:命どぅ宝!-沖縄戦の修羅場をくぐって
生々しい戦争体験 元ひめゆり学徒隊・新川初さん
2010「へいわのつどい」で講演をお願いしている元ひめゆり学徒隊・新川初さんは、一酸化炭素中毒で障がいを負った息子さんと暮らしておられます。一旦は植物状態になりながら一命を取り留め、長いリハビリの結果、就職も果たしました。
1926年、京都で生まれた新川さんは、父親の転勤に伴って15才の時に沖縄に転居。沖縄師範学校女子部に入学し、教師を目指していました。ところが、卒業式を3日後にひかえた1945年3月23日、米軍の艦砲射撃が始まり、100日間にわたる沖縄戦の修羅場に放り込まれました。
戦後は、沖縄で10年間中学校教師として働き、55年、大阪に転居後も、教師を続けました。障がい児教育にも携わり、退職後は、元ひめゆり学徒隊として沖縄戦の惨劇を語り継ぐとともに、障がい児教育補佐として新任教師の指導も行いました。沖縄戦の話と共に息子さんの生活などをお聞きしました。(編集部)
野戦病院での体験
卒業式の前日、看護要員として陸軍・南風原野戦病院に学徒動員されました。軍国教育の中で育った私たちは、ひたすら勝利を信じて「御国のため」に死ぬ覚悟でした。「非国民」と呼ばれることを恐れて、家族を振り切って駆けつけた友達もたくさんいます。
野戦病院といっても山中に掘られた30数本の壕で、薄暗いジメジメした穴倉です。私は外科壕23号に配属されました。米軍の激しい攻撃で、当初10数人だった傷病兵士は、100人以上にふくれあがりました。けが人が増えるにつれ、私たち学生がスコップで穴を掘り進み、寝かせる場所を確保するという有様でした。
手足を吹き飛ばされた兵士、内臓が見えるほどの傷を負い呻く兵士が、足の踏み場もないほど運び込まれました。数日すると傷口にウジがわき、肉を食う音が聞こえます。はじめはピンセットで摘んで取っていましたが、間に合わず、最後は、上着の裾を広げてそこへ集め入れ、壕の外に捨てにいく、空き缶に満タンになった排尿を捨てにいく、傷の手当て、消毒、死んだ兵士の埋葬、食事運搬などを、寝る間もなく繰り返し、寝る場所もありませんでした。
そんななか、夕刻食事運搬に出て、炊事場で待機中に迫撃砲が爆発し、破片が足に当たり、私自身もケガを負いました。足を伸ばして寝る場所もなく、壕の奥の片隅に体を丸めて寝かされました。
若者は純粋で、信じやすいものです。聖戦と勝利を信じ、爆弾を抱えて敵の戦車に飛び込む特攻攻撃で死んだ沖縄の男子学生もいます。やらせたのは日本の兵隊です。
(2010/08/09)
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