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特集:そのとき障がい者は! ポジティブ生活文化交流祭被災地報告会
復旧ではなく復興を
当事者の声で地域は変わる

阪神大震災から17年、東北大地震から10カ月目の新年を迎えました。3・11大震災以降、関西の障がい者団体は、阪神・淡路大震災の経験のなかから生まれた「ゆめ風基金」を中心に、現地支援を続けてきました。ゆめ風基金の理事である八幡隆司さんは、地震直後に被災地に入り、大阪のアパートも解約して長期滞在しながら、東北各地に支援拠点を作り、個別支援を重点にネットワークを広げています。

昨年11月23日、被災した障がい者団体の代表を招いて「ずっ〜と続けていく支援」のためのシンポジウム(大阪市北区・山西福祉記念会館/主催・ゆめ風基金)が行われました。地震の瞬間は、どんな様子だったのか? 避難所で障がい当事者はどんな生活を送ったのか? 原発事故の影響は? そして今後どう復活していくのか? 語っていただきました。被災現地の生の声を紹介します。(編集部)

地震の瞬間

被災地障がい者センターみやぎ(仙台市)の井上朝子さんと及川智さんは、事務所で会議中に地震に襲われました。電動車イスが倒れるほどの揺れで、手で必死で支えていたそうです。事務所は、蛍光灯が落ちて宙ぶらりん、本棚が倒れ、ガラスも割れました。幸運だったのは、日中の3時前だったので、比較的安否確認がしやすかった点です。

揺れが収まって井上さんたちは避難所に向かいましたが人が殺到して、中に入っても身動きがとれない状態でした。3月とはいえ東北の早春はとても寒く、雪も降り始めたので、事務所に帰ることにしました。事務所は、水道も暖房も使えたからです。

そのうち携帯が使えなくなったのでスタッフや仲間と連絡が取れず、心配していたら、みんなも同じ理由で避難所に入れず、事務所に帰ってきました。それでも「仲間がいたので、心強かった」と振り返ります。

福島の白石さんは総合福祉センターで会議中でした。何とか事務所に戻ると、中はメチャクチャで、在宅サービスを提供している人たちが心配で、事務局長に自転車で安否確認に回ってもらいました。道路が寸断され、車が使えなかったからです。

各住居は惨憺たる状態で、生活できる状態ではなかったので、郡山市障がい者福祉センターに皆で避難することに決め、仲間とともに1カ月ぐらい暮らしました。同センターには、最大人が避難していたそうです。

避難生活もたいへんです。ヘルパー自身も被災者です。原発事故の影響で若い職員も避難してしまったので、今もヘルパーが足りない状況が続いているそうです。

避難所と福祉避難所

5月には支援体制も整ってきました。被災地障がい者センターを中心に、困っている障がい者がいないか、避難所を回りました。ところがいくら探しても、介助や支援が必要な障がい者がいないのです。これには、東北独自の事情もあるようです。

司会の牧口さんが「『東北の人はシャイで辛抱強い』というのは、本当ですか?」と質問し、井上さん(仙台)は、「シャイなのは確か」と自身の経験から説明してくれました。井上さんは岩手で生まれましたが、養護学校に入学、自宅から遠いので併設の施設に入りました。東北では家族支援が軸になっているので、福祉サービスとも繋がらず、手帳すら持っていない障がい者も多くて、自分の障がいやニーズも言えないことがよくあります。

岩手には障がい者が地域で暮らせる環境がないために、高校卒業後、仙台に移って自立生活を始めました。今は、「CILたすけっと」という自立生活センターで事務局長として活動されていますが、こういう例は珍しく、街に出かけることすら言いづらい状況だと言います。

「ガイドヘルプサービスが、1回に1時間しか利用できない」―こんな現状を報告したのは八幡隆司さん(ゆめ風基金理事)です。陸前高田市では、ヘルパー派遣サービスの提供者が社会福祉協議会だけで、1時間では買い物にも行けないので、散歩ぐらいしか利用できない状況です。別の社会福祉法人が新たにホームヘルプサービスを立ち上げましたが、利用者が少ないので、3年でやめたそうです。ヘルプサービスを利用して買い物や家事をするという要望そのものがあがってこなかったのです。

施設や自宅から出たい、街を歩きたいという障がい者はいますが、地域に支援体制がないために、家族支援が中心にならざるを得ず、さもなくば施設暮らししかないのが現状です。

人との繋がり

「東北はコミュニティがしっかりしている」―被災した障がい者は口を揃えます。実際、原発事故の避難でも、地域で隈無く声かけがされたそうです。ところがこのしっかりした繋がりゆえに障がい者は避難所にいづらくなりました。

障がい者家族からまず出てくる言葉が、「皆さんに迷惑かけるから」です。例えば、全盲のご夫婦だと、何がどこにあるのかわからないので避難所では何もできません。知的障がい児がいる家族では、「みんなに迷惑をかけるから」と避難所を出て行ってしまいます。「地域がしっかりしているところは、みんなに迷惑かけずに生活することが暗黙のルール。だから、避難所で一緒に生活がしにくい」―石巻で活動する阿部俊介さんはこう説明してくれました。

地域が密に繋がっている。だからこそ、地元地域から離れた福祉避難所に行くと孤立してしまいます。同様に仮設住宅に入ると、地域の人たちだけで集まって閉鎖的になり、孤立する人が生まれたりするそうです。地域社会とどのような関係をつくるのか? 新たな課題が見えてきました。

支援活動

そうしたなかでも、被災障がい者自身が支援活動を担いました。及川智さんたちは、炊き出しや、障がい者が必要な食料を届ける支援を続けています。及川さん自身も、たすけっとの事務所で避難生活をしましたが、実際に困ったのは、介助・食料の問題でした。

3月18日から、たすけっと独自に仙台市内の相談支援事業所やヘルパー事業所、区役所に「障がい者の皆さん、困っていることはありませんか? なんでもご相談下さい」というビラを配り、FAXを送って、物資提供することを伝えました。3月中で200件近い物資を提供しました。

福島県南相馬市の青田由幸さん(デイさぽーと・ぴーなっつ)は、事故原発からq圏内で、再爆発がいつ起こるかわからないという緊迫した状況にありながら、「支援を求めている人がいる以上、支援を続ける」と決め、なかま3人とともに避難所にも行けず、自宅待機している障がい者や高齢者家族の支援を続けました。

今後何が大事か

シンポジウムの最後は、今後の活動について抱負を語っていただきました。仙台の及川さんは、「仙台市だけでなく、郡部地域も含めて、当事者の活動をもっと活発にしていきたい」と応えます。

今回の震災でも多くの問題が浮き彫りにされました。東北では、多くの障がい者が家族の支援だけで頑張っている状況があります。その主な原因の一つは、地域に福祉サービスがないことです。

「当事者の声によって地域は変わる、サービスも出来てくる。そういう意識すらないのが、今の状況です」(及川さん)。だからこそ、被災地支援活動の継続のなかで支援拠点ができ、「障がい当事者運動が起こって来たことが大事かなと思っている」と及川さんは語ります。「目指すのは復旧ではなく、復興です。障がい者も生活しやすい地域にしていくことです」と締めくくりました。

白石さんは、原発事故に関連して、「障がい者の生まれる確率が大きくなると思う」としたうえで、「どんな障がいがあっても、生きる権利がある。優生思想に十分注意しながら、原発と戦っていきたい」と決意を述べました。(次号では、原発被災地である南相馬で活動を続ける青田さんの報告を中心に特集します)

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