ぷくぷくの会ホームページ

特集:原発事故被災地福島県南相馬市では?
支援を求める人がいる以上、支援を続ける 青田由幸(デイさぽーと・ぴーなっつ)

福島県南相馬市の青田由幸さん(デイさぽーと・ぴーなっつ)は、事故原発から25qのところで被災しました。地震と津波で原発が制御不能となり、建屋が次々と爆発。再爆発がいつ起こるかわからないという緊迫した状況にありながら、「支援を求めている人がいる以上、支援を続ける」と決め、なかま3人とともに自宅待避している障がい者や高齢者家族の支援を続けました。

前号で特集した被災地報告会(主催・ゆめ風基金)でも報告されていましたが、さらに詳しく原発事故の深刻な被害や放射能汚染下の福島の復興の可能性などについて青田さんに話を聞きました。報告会の内容とあわせてお報せします。(文責・編集部)

逃げたくても逃げられない人

3月11日、私は南相馬市で、原発から25qのところで地震に遭いました。南相馬市は、原発から20〜30q圏内に含まれる地域が大部分です。21日以降、原発建屋が次々と爆発し、20q圏内に避難指示、20〜30q圏内には、屋内待避が指示されました。屋内待避とは、窓を閉め、換気扇・エアコンを切り、マスクをして、じっとしているということです。「当面は大丈夫」ですが、「妊婦・老人は逃げなさい」という危険な状態なので、逃げられる人は逃げました。

原発から4qの場所に双葉病院(大熊町・入院患者337名)があります。原発事故による避難指示で、209名は21日、町が手配したバスで避難しましたが、重症患者らが残され、次の救助はなかなか来ませんでした。

14日夜、残って看病していた院長ら職員4人は、警察に強制退避させられ、救助に戻ろうとしましたが許可されず、残された患者ばかり90人は、15日にようやく助け出されました。この混乱のなかで、40名以上の重体患者らが死亡しています。

高齢の親を「自分たちは逃げるからどうぞよろしく」と、施設にお願いして避難するケースもありました。一旦原発が事故を起こすと、こんなあり得ないことが起きるのです。

3月中旬、南相馬市長は、原発再爆発の可能性もあるので、すぐに避難できない要介護者(障がい者・高齢者)、妊産婦、子供、病人は、早急に域外へ避難するよう呼びかけました。病院も障がい者・高齢者の入所施設も、全て閉鎖されました。この時点では「すぐに避難できる人」だけが残っているはずでした。

ところが、逃げたくても逃げられない人たちがたくさんいました。高齢者・障がい者のいる世帯です。避難は、30qより外に出ないといけないので、車がない人は逃げられません。

避難所の人たちも多くが逃げられませんでした。屋内待避が指示されると、行方不明者の捜索は中止になります。身内がまだ見つかっていない家族は、逃げられるわけがありません。

約600人の避難希望者がいたのですが、受け入れ先が見つかりませんでした。最終的にマスコミを通して救援要請を出し、受け入れ先は見つかったのですが、バスが郡山まで来ても、運転手がいやだと言って逃げてしまうということも起こりました。30qで円を描かれると何もできなくなります。一番困るのは、最も支援が必要な弱者が残されるのです。

南相馬市では、7万人中1万人が残留しましたが、危険で過酷な生活でした。幹線道路は30q境界で通行止めとなり、物流が完全にストップします。ガソリンも食料品・医薬品も入ってこず、病院・福祉サービスも止まり、市民生活は不可能となるのですが、逃げられないのです。これが原発事故の実態です。

逃げられない人のため残留を決意

私たち「ぴーなっつ」は、利用者の安否確認が完了してなかったのと、要支援者が避難できずに残るだろうと想定できたので、すぐに避難できる準備をした上で、施設長と私と職員、合わせて3名が事業所に残ることにしました。

しかし、逃げられなかった利用者の状況が悪くなり、在宅では支援しきれないケースも出てきたので、自宅待機の職員にも声をかけて、4月11日、5名で事業所を再開しました。

3月後半に「被災地障がい者支援センターふくしま」が郡山市に立ち上がり、4月8日にはJDF(日本障がいフォーラム)が障がい者団体をまとめて、救援活動が始まりました。支援情報をテレビ・インターネットで広めると、「避難所で車イスのまま1週間、風呂も入れないままだ」という連絡や、「自宅で避難していたが、水・食料が枯渇しそうだ」等々、SOSは日増しに増えました。

支援のないまま避難所にいる障がい者がいることも予想されたので、「支援センターふくしま」が全国の協力を得て、調査のために県内180ヵ所の避難所のローラー作戦を行いました。ところが、避難所に障がい者がいないのです。避難所にも行けず、自宅で孤立生活を送る障がい者・高齢者が多くいて、国も県も実態を把握できていませんでした。

南相馬市は、「災害時要援護者リスト」をもとに、高齢者、障がい者の安否確認のために自衛隊の空挺部隊1200人に要請して、ローラーをかけていました。しかし、この捜索からも多くの障がい者たちは漏れていました。

というのは、福祉サービスや民間支援組織を利用していれば、災害時に安否確認や追跡調査もできます。ところが、障がい者・高齢者世帯のうち7割は普段からどこにも繋がらず、孤立して生活しているのです。

南相馬市も同様でした。支援したくても、誰がどこにいるかわかりませんでした。そこで南相馬市に「私たちにできることをしたい。死んでしまったら役所の責任だ!」と訴え、要援護者リストを見せて欲しいと訴えましたが、「個人情報だから見せられない」と最初は断られました。

市は、「自衛隊を入れて、ローラー作戦をしているので大丈夫」とも言いました。ところが、実際に私たちが、支援を続けている人のリストとすり合わせると、要援護者リストには一人も入っていませんでした。リストに登録されていたのは、ベッドから一歩も動けない寝たきりの老人・障がい者で、要介護レベルが高い人のみでした。その人たちは家族がいれば、連れて逃げることができます。ところが、発達障がい児3人を抱えるシングルマザーの家族などは、リストには書かれておらず、置き去りでした。

被災者を一人も残さない

要援護者リストは役に立たないとわかったので、身体と知的障がい者の手帳情報を出して欲しいと交渉しました。ところが市は、「他の人に知られたくないという障がい者は多いので、教えられない」と言われました。

それでも「困っている人がいるのに放っておいていいのか?」とねばり強く交渉した結果、福祉部長が英断してくれました。65歳以下の身体・知的の方の登録情報をもらいました。

それでも精神障がい者は網羅されていません。うつや、ひきこもりの人がいるからです。その人たちについては、自立支援医療の情報を出してもらうようにしました。これは、県の管轄です。市長に直談判し、県庁に連絡を取ってもらいました。副知事の決断で、情報を出してもらうことになりました。

これらの情報をもとに、県の保健師、市の保健師、長崎医大などが協力してローラー作戦をしました。こうして南相馬市では、精神、知的、身体障がい者と高齢者、全部の安否確認ができるようになりました。私たちは、1人も漏らしたくないとの思いで、半年かけて全員の安否確認を終えました。

調査の結果、「災害時の要援護者は、介護度や障がいの重さではなく、生活環境の状態によって大きく変わる」ことがわかりました。他の地域でも早急に見直しをしないと、多くの災害弱者が置き去りになってしまいます。

南相馬市が、日本で1番障がい者に繋がったと思います。でも、私がここに来ているのは、南相馬市が良かったというのではありません。これから、どこで災害が起こるかわかりません。そのときに、南相馬市の状況を思い出して、声を上げてほしいと思って来ています。皆さんの地域でも要援護者リストを確認し、緊急なときに、どこに繋がっているか確認してほしいと思います。

支援があれば私たちも頑張れる

福島は大量の放射能で汚染されてしまい、影響は長期に渡ります。福島県、被災地の人たちは、元気なふりしてても辛い思いを抱えています。辛いから忘れようとしているのです。

残念なことに、南相馬市には子どもが4割しか残っていません。うちの職員も家を建てたばかりでしたが、子どもが生まれたばかりなので戻りたくても戻って来れないままです。職場も土地も大好きなのに、帰って来れないのです。

福島の浜通は、これから子どもがどんどんいなくなっていくと思います。障がい者・高齢者の町になるかもしれません。県外に避難した子どもたちも履歴から「福島」を消したいと言っています。自分たちの子どもが、長崎・広島の原爆2世、3世の人たちと同じように差別されるかも知れないのです。長崎から応援に来てくれた人が、「長崎で最後にしたかった」と言っていました。

政府は、住民が戻れるように除染すると言っていますが、除染は無理です。山や森や川は、広範囲に渡って汚染され、どうしようもありません。

それでも福島に住み続けている人たちもいます。残らざるを得ないのです。南相馬市に残って運営を続けた事業所は、災害後2カ月間は私たちだけでした。今も、原発事故は収束にはほど遠い状態です。逃げようと何回も思いましたが、逃げれませんでした。それは、「たすけっと」が頑張り、白石さんたちも頑張っていたからです。

今回の災害が起こったとき、最初に動いたのは当事者の人たちです。たすけっと、ILの白石さんが3〜4日後に来てくれました。自分たちが被災し、介助者もいないのに、他の人たちが大変だからと動いてくれました。

彼らを見たから、私たちも支援を続けられました。大阪や関西からも応援に来てもらっています。だからこそ、私たちも頑張っています。全国の人たちの応援が私たちの支えです。

これからも困難が続くと思いますが、みなさんの支援があれば頑張れます。これからも支援よろしくお願いします。

WEBは抜粋版です。すべて読みたい方は購読案内をご覧ください。



1999 pukupuku corp. All rights reserved.