ぷくぷくの会ホームページ

吹田の生き物と人49アカマツ 高畠耕一郎

今年の冬、紫金山公園で里山管理作業をしていると、アカマツが枯れて危険な状態になっているのがわかったため、やむを得ず5〜6本伐採しました。

紫金山にある吉志部神社社務所に飾ってある墨絵(1942年作成)には、吉志部神社と背景の林が描かれているのですが、樹木は大半がアカマツです。かっては、この紫金山周辺もアカマツが中心の山だったようです。

平安京造成時には、この紫金山周辺で瓦を大量に生産して、京都まで運んでいました。紫金山周辺は、この瓦を焼く一大生産地でした。その燃料は周辺の山々の雑木で、良く燃えるアカマツは利用度も高かったと思われます。

貧栄養地でも育つアカマツ

瓦の生産が紫金山で行われなくなった室町時代以降も、紫金山周辺は常時人の手が入り、近隣農家の薪として有効利用されてきました。そのために、他の雑木林が生えないぐらいアカマツが優占種として育っていったのしょう。

アカマツは、土壌が貧栄養な場所でも生きて大きくなることができる強い植物です。紫金山では、第2次大戦後までこの状態が続いたと思われます。

紫金山の落ち葉も、すぐに拾われて田畑の肥料として利用されてきたと思われます。そのため、林床が貧栄養で乾燥し、他の植物が侵入しにくい条件となり、土壌環境がいつまでたっても豊かにならなかったのです。そのために、絵に残っているようにアカマツ林ばかりが目立つ山になっていったと考えられます。

この現象は紫金山に限ったことではありません。西日本の林でアカマツ林が拡大するのは、室町以降です。江戸時代には人里周辺の山々は、ほとんどがアカマツ林に変わってしまいました。

燃料確保のための森林破壊がアカマツ林を増やした

つまり、アカマツ林が日本列島全体で拡がっていった原因は、人間生活の燃料のための森林破壊だったといえます。

アカマツ林の拡大は第2次大戦まで続きましたが、戦後、石炭や石油が普及し、山の雑木を伐らなくなりました。そのため、コバノミツバツツジやネジキ、アカメガシワの落葉樹、さらにはソヨゴ・ヒサカキ・クスノキなどの常緑樹も増えてきたのです。

さらに紫金山では、市の公園に指定され、樹を全く伐らなくなったため、木々も大きくなり、いつの間にか紫金山公園は薄暗い林になってしまいました。

これではいけないということで、紫金山みどりの会の方が中心となって、吹田市と相談しながら、大きくなりすぎた常緑樹を伐採し、少し明るくなりました。しかし、落ち葉もない貧栄養な土地を好むアカマツには時すでに遅く、他の植物の勢いに負けて枯れてきたのです。

今回、紫金山の大きなアカマツの伐採を通じて、植物の移り変わり(遷移)を考えさせられました。

WEBは抜粋版です。すべて読みたい方は購読案内をご覧ください。



1999 pukupuku corp. All rights reserved.