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特集:障がいが「バリア」となる社会ではなく障がいが価値となるバリアバリュー社会へ
株式会社ミライロ代表取締役社長 垣内 俊哉さん

「人は飛躍なんてしない。もがき続けることが大事」―こう語るのは、潟~ライロ社長・垣内俊哉(23才)さんです。「骨形成不全症」という難病のために車いす生活ながら、21才の時に友人と2人で起業。現在は、社員12名(インターン10数名)とともに、@ユニバーサルコンサルティング、Aユニバーサル接客研修、Bミライエデュケーションの3事業を柱に、経済性を兼ね備えた「バリアバリュー」な社会の創造を目指しています。「バリア(障がい)バリュー(価値)」とは、障がいをマイナスやハンデと捉えるのではなく、障がいをプラスや価値に変えるという発想の転換です。

「人生の5分の1が病室の中だった」という垣内さんは、高校を中退して歩けるようになるための大手術と長期のリハビリを受けましたが、結局歩けるようにはなりませんでした。同時期、別の病気も見つかって、生きる意味を深く問うこととなりました。深い絶望のなかで、生きる目的や人生観を掴んだ垣内さんは、「天井を突きぬけた」経験だったと当時を振り返ります。

「日本は、高齢化社会の先進国。本物のユニバーサル社会を打ち出せば、もう一度世界をリードできる」と夢を語ります。(文責・編集部)

自分の弱さ受け入れた時 強くなれる

私は、骨が弱く折れやすい「骨形成不全症」という病気とともに生きてきました。小学校時代は、運動会、クラス合宿、マラソン大会など楽しいイベントがたくさんあります。でも、行事の前になると決まって骨折して、涙を飲んでいました。

「みんなと同じように歩きたい」という想いはずっとありましたが、「ケガ→入院→手術」を繰り返すうちに歩くのが恐くなり、車いすに乗る機会が増えていきました。

募っていた「歩きたい」という思いが爆発したのが、高校に入って半年たらずの頃でした。高校では放課後、カラオケやファミレスに行ったことがありません。誘われても「友人の迷惑になるんじゃないか」と考えてしまい、家に帰って一人で過ごす縮こまった生活でした。

いつも他人の顔色を伺い、誰かの手を借りなければいけない生活に嫌気がさし、歩けない自分が、とても弱く惨めな人間に見えていたのです。こうした自己嫌悪の毎日に疲れ、高校を休学する決意を固めました。

「歩けるようになれば、現状を変えられる」と信じ、専門医の診察を受け、退学に猛反対する親や先生と何度も話し合い、大阪で専門医の治療を受けることを決めました。

手術は無事終わりましたが、後の経過は決して望ましいものではありませんでした。3カ月間の寝たきり生活の後、朝から晩までリハビリの生活を送りましたが、歩けるようにはなりませんでした。

なかまと出会い天井がはずれた

この病気は遺伝性の病気で、父も弟も足が不自由です。子どもが生まれても、歩けない可能性が高いのです。そうなら、歩けなくても快適に生活できる環境、歩けなくても自分を好きになれる社会=バリアフリーな社会作りこそが、自分の生きる意味だと思うようになりました。

それまで私は、障がいを克服して歩きたいという自分の欲求しか考えていませんでした。しかし、それが無理とわかって、「骨形成不全」という障がいを治すという発想ではなく、歩けないことが「バリア」になってしまう社会の側を変えていく、という視点に変わりました。

ここに至るには、手術後の長い寝たきりとリハビリの日々のなかで、悶々とした時期が必要だったのかもしれません。私は、人生の5分の1くらいはベッドの上で過ごしてきたことになります。考える時間が人一倍多かったと思います。入院中、合併症に罹ったこともあり、「何のために生きるのか?」と問い続けたのです。

ただ、事業化に踏み出してからは、多くの方々から支援や助言を頂きました。私は、自分の足で歩くことはできませんでしたが、私に関わった多くの人たちから「杖」をもらって、歩いているのだと思います。

起業するうえで、なかまの存在は大きな励みとなっています。大学は、経営学部の起業家育成コースでしたが、学生はいい意味でヒマです。毎日毎日、友人4人と「あーでもない、こーでもない」と夜遅くまで起業アイディアを考えていました。

これらアイデアが多くのコンテストで評価され、賞金が300万円近く貯まりました。これをみんなで分配し、才の時に友人と二人で潟~ライロを設立しました。

私は、病気のせいで運動会でみんなと一緒に綱引きをすることも、リレーに出ることもありませんでした。でも、ビジネスコンペでは、みんなで遅くまで案を練り、受賞した時に泣いて喜んでいた仲間の姿を見て、泣くほど嬉しく想いました。私は、ずっと孤独だったので仲間が欲しかったのだろうと思います。

「みんなと本気でやること」の素晴らしさや喜びを知ったことが、会社設立の大きな動機になっています。

なんちゃってバリアフリー

「ミライロ」という会社名は、「未来の色」と「未来の路」に由来します。誰もが自由に自らの色(個性)を描いていける未来、誰もが自由に生き生きと歩める未来を創造したい…。そうした思いから多くの仲間や支援者が集まって、潟~ライロは誕生しました。

ミライロが目指すバリアバリューな社会の基軸は、社会性と経済性ですが、私たちは、経済性を大切にします。社会性だけだと継続が困難です。

バリアフリーという言葉は「バリア=障がい」を「フリー=取り除く」という意味になります。つまり、障がいというマイナスをゼロにするというアプローチで、障がいを否定し無くそうという考え方になります。しかし私は、障がいをマイナスやハンデと捉えるのではなく、プラスや価値に変えられる『バリアバリュー』な社会作りを目指したいと思っています。

現在のバリアフリーは、「なんちゃってバリアフリー」がほとんどです。本格的で良質ではないのです。あらゆる業種においてバリアフリー化することで新たな顧客開拓の可能性が生まれるのです。

障がい者=750万人が街に出て、買い物を快適にできるようになれば、売上げは伸びます。ベビーカーを押しているお母さん、お年寄りなど、バリアフリー化によって潜在的な顧客が、街に出てくるのです。

これらの方々には、家族や友人がいます。バリアフリー化の経済効果は、大きいのです。

コンサルティングや接客教育事業は、バリアフリー化によって顧客満足度が上がり、リピーターも売上げも増加するというメリットを感じてもらうことで、継続した取り組みに繋げていきます。

ミライロでは、障がい当事者によるバリアフリー調査を行います。接客研修にしても、当事者視点がはっきりしているので、「なんちゃってバリアフリー」とはちがう、本物のコンサルティング・研修となります。

こうした取り組みの結果、「ここまで徹底したバリアフリー化をしている会社なら是非入りたい」という人集めの分野でも、効果が出ています。

もがきながら自分を変えていく

私自身が、生きる意味を見出せず、縮こまって生きてきたので、しんどい時は愚痴や弱音を吐いていいと思っています。しんどい時期があるほど、縮んでいたバネがバーンとはじける時が来ると思います。

もがき苦しむことが必要で、自分を否定するのではなく、ダメな部分を受け入れて、「じゃあどうしようか?」と考えてみることが大切です。弱いダメな自分を見つめられるようになった時に、本当の強さが身につくと思います。

困難な事態が一気に好転することなんてないし、人間が突然飛躍することもありません。もがきながら、ゆっくり自分を変えていくことが大切です。

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