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追悼 入部香代子さん
支え合う人のつながりの大切さを教えてもらいました 編集長 上田かおり

入部香代子さんが7月24日朝、急逝されました。62歳、肝硬変でした。24時間介護が必要な障がい者が、家族以外の介護を受けて、「地域であたりまえに生きる」を貫きとおした香代子さん。障がい者に対する差別と向き合い、「困った状況にある人のことは何とかしなあかん」と、常に行動してきた香代子さん。ぷくぷくの会の吹田での活動の始まりも、香代子さんと出会いがあった人たちで創りあげたものです。

1991年4月「全国初の車いす女性市議会議員」として当選してから4期16年、豊中市議会議員をつとめられました。これらの経過は、『引き出しの中、ぜ〜んぶ/香代子の車いすガッハッハッ人生』(2007年・りぼん社出版)にご自身で書かれています。

2次障がいで、首や股関節や足の痛みがひどくなり、脳性まひの硬直がきつくなったり、肝硬変も進行していく中で、議員引退後も様々な方面で活動されてきました。2007年には、まねき猫通信の編集部にも入って頂きました。

追悼と感謝をこめて、彼女の生き方や考えに少しでもせまっていけたらと思います。(上田)

香代子さんとの出会い

すいた共働作業所〜ぷくぷくの会設立メンバーの一人である私の今は、香代子さん抜きにはありえません。

33年前、大学に入って間もない頃、先輩に誘われて行った講演会で話をされたのが長沢香代子さん(旧姓)でした。

内容は、障がい者が毎日寝て起きて着替えて出かけて、ごはん食べてトイレしてお風呂に入って、というすべてにわたり「介護」を必要としていること、それは親や家族だけで担いきれるものではなく、家族に責任をおわせることでもない、というものでしたが、強烈に残っているのは「あんたら健全者が何もせえへんかったら、わたしら障がい者は生きていかれへんのやで」という言葉です。

車いすに座って右手は後ろに回し少し斜めに構えて、隣にいる人に次々何かを指示して介護してもらっている姿が印象的でした。香代子さんが「お茶」というと、介護者がストローをさしたコップを持ったまま香代子さんの口元に近づけて香代子さんがくわえてズズッと飲むわけです。「タバコくれる」というと、介護者が箱から1本取り出し指にはさんだまま香代子さんにくわえてもらってライターで火をつけます。吸いこんだらはなす、灰を落としてまた口に持っていく、というのを介護者の手がするのです。私はそれまで障がいをもつ人と出会ったことはなく、話の中味とあわせて、香代子さんの姿そのものと、介護者との連携プレーがとても新鮮に映りました。

でも、それからが大変でした。「あんたも介護に来てや〜」の声かけに「え〜、どうしたらええんやろ」と考える間もなく、あれよあれよと介護に入ることになり、私の人生の半分以上にわたるお付き合いとなりました。いろんな人と人が交わって、人が生きていく、ということをまざまざと教えられる密度の濃い時間をいっしょに過ごさせてもらいました。

今は障がい者自立支援法や総合支援法でヘルパーの制度ができてきていますが、当時はせいぜい週に1時間の家事ヘルプしか制度は利用できませんでした。「ひまがあったら」的なボランティア意識ではつとまらず、「『介護は障がい者の生活を保障する』という意識を持ってかかわってもらわないといけない」と言われました。

介護者のつながり

当時は長男の正也君が1歳を迎えたばかりで、2人目の子どももお腹にいる状態でした。子どものために香代子さんも必死だったと思います。右も左もわからんような二十歳前後の学生が次々入れ替わり立ち替わりやってきて、家事も育児も香代子さんがいちいち教えながら進めるという暮らしぶり。介護者は朝8時からの昼介護と夕方7時からの泊り介護で交替します。赤ちゃんもいるので昼間は2人体制でした。1日3人の介護枠を埋めていくのは大変な作業です。次々新しい人を誘ってこないと埋まりません。

「介護者が決まらんかったら明日どうなるんやろか」と思うと断れない何人かが集中して入ることになってしまいます。同級生の女子学生が30人ぐらいいたので、1人ずつが月1回でも入ってくれたら昼の1枠を埋められると思って順々に誘いました。初めから断る人もいれば、長く続けてくれた人もいます。

やっぱり関係は一人ひとり違います。介護者側が関わるのは1日の半分、週に1回だったり、月に1回、あるいは年に1回だったりで、自分の生活の中では点に過ぎません。しかし介護を受ける側にとっては、そういう介護が連綿と続いて日々の生活を営んでいくわけです。なるべく介護と介護がスムーズな線につながるように、介護ノートにマニュアルや連絡や注意事項、介護に入って思ったことなどが綴られました。

「個々の力だけではできへんのやから集団をつくることで支えなあかん」とよく言われたような気がします。

障がいをもつ人と関わってのそういう介護のつながりを改めて考えていこうと思います。

弔辞 自分らしく生きることに こだわり続けた人でした  サポネ 山上隆子

私は、毎日24時間交代制で入部香代子さんの介護をしてきたNPO法人障害者の自立を支えるサポートネットワーク事務局長の山上隆子です。

サポートネットワークが事業所になって11年ですが、私が香代子さんの介護をしてきたのは23年前、学生の時からです。誰よりも香代子さんと夜の時間を過ごしてきてしまいました。

香代子さんが24時間介護を受けての生活を始めたのは正也さん出産時ですから、34年前になります。たくさんの人が香代子さんの介護をして、通りすぎていき、つながっていきました。千人はゆうに超えていると思います。千人以上の人が香代子さんの口に食事をはこび、トイレの後にお尻を拭き、はだかになって体を洗い、着替えをして、たばこをふかせてきました。器用な人もいれば不器用な人もいました。

そんなにたくさんの人に介護を受けていたら、どうでもよくなりそうですが、香代子さんは介護者に時には厳しく、めちゃくちゃイラつきながら、硬直をきつくさせながら介護者にお尻の拭き方、髪のセットの仕方を説明していました。本当に介護者泣かせでした。夜は寝ないし、食事のメニューはなかなか決めてくれないし、髪型はその時の流行に合わせて、編み込みをしたり、カラーを巻いたり、複雑なことばかり。

自分のやりたいことをどんな困難があってもやり通す。障がい者主体を実践していました。

小さな日常生活の事柄から、母として、障がい者運動の担い手として、議員として、すべてのことを介護者とともに、香代子さんは自分のこだわりを通してきました。

「ちゃうねん、なんでやねん」

死が近くなって、腹水がたまっても、トイレを失敗しながらも、外へ出ていきました。ベッドで過ごすことばかりになった1カ月ほども、あきらめずいろんなことを伝えて、でも言葉が出にくくなっていたので、伝わらず、イライラしながら「ちゃうねん、なんでやねん」を繰り返していました。最後まで、自分らしく生きることにこだわっていました。

お元気なときは、いろんな市民の方から、さまざまな相談を受けていました。「死にたい」「殺される、もうだめ」といったどうしようもない状況の電話の時も、介護者をかけつけさせたり、ご自分も助けにいったり、対応されていました。

私は香代子さんを通して、困った状況で支援が必要な人が社会に街にたくさんいることを知りました。何年も風呂に入っていない障がい者、借金まみれの方、家族が皆精神的に病んでいくお家。介護を受けながら、その人たちの悩みや状況を聞き、役所に支援が必要なことを訴え、支援体制をつくってこられました。介護者が「無理」と思うことも実行されました。本当に介護者泣かせでした。

議員、政治の世界も香代子さんの介護を通して垣間見ることができました。議員さんや市職員と時には真剣に話し合い、時には怒って訴え、ある時はハッタリを言い、ハラハラしながらみている時もありました。ハッタリを言っていても、脳性マヒによる硬直をきつくさせながら口から出る言葉はなぜか重みがあり、説得力があるのはちょっとおかしかったです。

香代子さんは政治家だな、と思いました。

わからないながらわかろうとする努力

23年介護をしてきて、もちろん香代子さんの全てを私は知りません。今も、私のことばを「ちゃうねん」とイライラしながら、上からみてはるような気がします。

香代子さんの介護をたくさんたくさんしてきて、私は人と人が支えあいながら、自己主張しながら生きていくことの難しさ、大変さを教えてもらいました。

だいたいの人は、一人では生きていけない。なぜなら人生にはいろんな困難がおき、一人では対処できないからです。

介護をしながら香代子さんの困難をみてきました。離婚、子育てしながらの仕事、退職してからの身のふり方。そして病、そして死にむかうこと。

頼りない私が、介護派遣事業所の責任者をやってこれたのは、香代子さんの介護を通してたくさんたくさん経験させてもらったからです。ありがとうございます。

不死身といわれた香代子さんは100歳まで生きたいと仰っていたので、私は香代子さんの死を体験できないと思っていました、「私の方が先に死んでしまうわ」と思っていましたが、香代子さんの死を体験できてしまいました。

死の数時間前、香代子さんと二人っきりになったとき、「いろいろ経験させてもらってありがとうございます」とお礼を言いました。反応がなくなりつつありましたが、その時は大きく目を見開いて何か仰いましたが、わかりませんでした。「まだ死ねへんで」なのか「なんでやねん」なのか、わかりませんでした。でも何かの思いを受け取れたので、わからなくてもよいと思っています。

わからないながら相手をわかろうとすること、そして支援すること、介護すること、支えあうことを、これからも私は実践していきたいと思っています。

香代子さん、間違っていたら「なんでやねん」と教えてください。よろしくお願いします。

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