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特集:「同じ目線に立ってしんどさや悔しさを想像できる人が増えて欲しい」
障がいがあっても地域の学校へ 難病の子ども育てる 長瀬真理さん

「ムコ多糖」は人体の組織を形づくる物質で、それを分解する酵素が生まれつき足りなくて、本来代謝されていくはずの不要な分が体の中にたまっていく病気が「ムコ多糖症」です。

見た目にわからなくても、日々進行していく難病で、骨が変形したり関節が固まって体を動かせなくなっていきます。様々な臓器も機能不全に陥ります。言葉がわからなくなったり、脳の働きも低下していきます。症状・進行は様々ですが、多くの患者の寿命は、15歳位といわれています。長瀬真理さん(仮名)の2人の子どもは、この病気を発症しました。  (編集部)

子どもたちの力

長男の進は、小学校入学当時、会話もでき皆と一緒に登下校していました。毎日、友だちが入れ替り家に遊びに来て、ケンカもしたりしていました。

小学校2年の冬に肺炎になったのをきっかけに急激に病状が悪化しました。歩行困難になり会話力も徐々に落ちていきました。回復は見込めず、私もひどく落ち込み、混乱しました。

学校を休んで2カ月ほど経った頃、進の友だちが毎日自宅に連絡帳を届けにやって来て「進君に会いたい」と言うのです。変わり果てた進の姿を見せたくないという思いで断っていたのですが、10日も続くと、こちらが根負けし、会わせました。

するとその子は、以前と同じ態度で、「俺やで、わかるやろ」と必死で語りかけているのです。「もう進は、しゃべられへんし、歩けないかもしれん」と言うと、「歩けんかったら車いすがある。しゃべられへんかて、俺はわかるから大丈夫」と言うのです。

「みんなに迷惑かかるから」と言うと「俺が守るから」と訴えるのです。さらに「ありがとう」と言うと、「おばちゃんは(学校に)行かせたくないかもしれんけど、進君は行きたいんやで。おばちゃんは怠慢やと思う」とまで言ったのです。彼は、進の気持ちを代弁していると思いました。暗闇のトンネルのなかで一筋の光を見た気分でした。彼は「明日から迎えにくる」と言って帰って行きました。これが学校再開のきっかけです。

私は、あの子たちがいたから、「地域の学校へ行かすべきだ」との確信をもつことができました。あの子どもたちの言葉と行動によって、私自身救われましたし、変わっていった先生もたくさんいます。

ここから、症状は悪くなる一方の進がどうやって学校生活を送るのか? 試行錯誤が始まりました。この作業は、私たちにとっても学校にとってもとてもたいへんな作業でした。

新たな学校生活が始まり、態勢も徐々に整っていきました。ただ、「手のかかる子どもだから学校はここまでしかできない」という姿勢が見え隠れし、釈然としない気持ちで、進が5年生の時に「障害者の権利保障をすすめる会」に参加しました。障がいのある子どもが地域の学校で過ごすことの意味を学び、考えることができました。

5・6年生になると修学旅行など行事も増えてきます。親が同行しないといけないのか、他地域での取り組みなども知るなかで、学校側と親がすべきことの線引きをし直すために話し合いをしました。学校側はこれまでの不備を認めて、6年生になると介助員がつく時間が増え、先生の基本姿勢も変わりました。「より良い態勢を作りたい」という姿勢がはっきりと伝わってきました。働きかければ事態は前進することがわかりました。

地域で生きるには、こうした葛藤や苦労は避けて通れません。しかし支援学校に万全の体制があるかといえば、違います。バラツキもあるし、不備もあります。大事なことは、一緒に学び改善し合う姿勢です。

支援学校という選択(※注 学校教育法の改正で以前の「養護学校」は、2007年から特別支援学校となり、大阪では「支援学校」となった)

中学校への進学では、いったん支援学校の選択をしました。「酵素療法」という新治療法が近く認可される予定で、家族は治療最優先の生活となりました。学校は学籍確保ができればよく、通学は2の次と考えていました。この頃、次男・貴も同じ病気だとわかり、弟の為にも新治療法が優先でした。

一応地元の中学校には、車いすの生徒がいたか聞いたところ、経験がないということでした。ましてや進は、すでに意思表示も困難になっていました。

小学校でも学校側との話し合いや環境を整えるための働きかけは大変だったので、実績がない中学校に子どもを行かせることは難しいと考えました。

ターニングポイント

支援学校を選択したものの、迷いもあったので、入部さんや教師たちの意見を聞くと、「支援学校の選択は、間違っている。せっかく作ってきた子どもたちの関係を断ち切ることになる」と、きっぱり言われました。私自身、「子どもたちに勇気づけられ、ここまでこれた」という気持ちだったので、もう一度考え直そうと思いました。

そんな頃、小学校最後の参観日がありました。この時も友だちの進への熱い思いを感じ、他の親たちからも激励され、やっぱり「進とこの人たちとの関係を大事にしてやりたい」と思うようになりました。

年が明け、地域の中学校へ行かせる決意が固まると、皆さんが学校や教育委員会に働きかけてくださり、普通校への変更が実現しました。教育委員会との交渉では、「全力で対応します」との言葉も頂きました。今でもこの選択は正しかったと思っています。

進の死と弟・貴の学校生活

弟の貴は、進より5歳下で同じ病気です。進の症状が重くなった時期に小学校へ入学したので、私は進の方で手一杯になり、貴は、「ヘルパーさん任せ」でした。小学校時代は、進の経験があり、学校側もしっかりした体制で臨んでくれました。

現在中学2年ですが、2年前にマイコプラズマ肺炎にかかり、一気に症状が悪化しました。今は治療優先で、登校できる日も限られているのですが、先生方も治療日程との調整で学校行事を計画し全力で支えてくれています。

進の病気が進行した時は学校が簡単に対応してくれるとは思っていませんでした。それでも頑張れたのは、関わった人たちが少しずつ変わっていくのを実感できたからです。

しかし、貴が通う中学校側の変化は、すごいスピードです。教育委員会が掲げている【ともに学び育つ教育】を実践しようとしているのを感じています。

進は中学校3年生の冬、卒業を前に亡くなりました。見学に行った普通高校の校長先生からは、「ぜひ来てもらいたかった」との言葉も寄せられました。

こうした学校の姿勢と体制の変化は、進との関わりが積み上げられたものです。進に関わった人にとって彼の死は、「死が間近にある病気の現実」を実感させました。今また貴に関わる多くの人の心にも強い変化を呼び起こしたと思います。

生きることは皆平等ですが、死も平等にやってきます。生も死も平等であるなら、生きていく過程も平等であってほしいと思います。

強いられる選択

障がい児とその親は、ことあるたびに選択を求められます。日々の学校生活をどう支えるのか? 遠足はどうするのか? 修学旅行はどうするのか? 考え決断しなければなりません。これは、障がいゆえに強いられる選択と決断です。

支援学校か普通校か?を問われること自体が、大きな心理的負担です。地域の普通学校への進学があたりまえであってほしいのです。

子どもの意思がはっきり表明されれば、親は全力でその方向に進みます。しかし、知的障がいがあったり、意思表明が困難な子どもは、親が判断せざるを得ません。地域の小中学校に行かせたいと思う親は、その学校へ行って話を聞きますが、「車いすの児童を受け入れたことがない」と聞いた時点で、諦めがちです。暗黙のうちに支援学校を選ぶしかないとされているような気がします。

しんどくても活き活きと地域で生きる

障がい児やその家族が地域で生きることは、しんどいこともあります。運動会で他の子が走っているのを見れば、うちの子も走っている姿を見たいと思い、悔しい思いをかみしめます。

しかし、ほとんどのしんどさは世間の目なのです。冷ややかな視線や同情心を感じるたびに傷つきます。支援学校が楽に思えるのも、そうした目から一時的に逃れられるからでしょう。

一方、子どもたちは、生きる姿を純粋な心で素直に見ようとするので、病気や障がいのある姿をそのまま見て、関わります。私も彼らの姿に助けられ、冷ややかな視線を受けて立つ肝っ玉もできました。

でも親がずっと盾として立ち続けることはできません。ですからその人なりに共感し、盾となろうと思う人が一人でも増えて、言葉や行動で示して欲しいと思います。

進とその友だちと一緒にボーリングに行った時のことです。ある子が「おばちゃんは、外に出たらいつもこんな視線で見られていたんやね。初めて知ったわ」と言いました。

障がいや重い病気を抱える当事者は、常にそうした冷たい視線にさらされて生きています。しかしたまに、とても暖かい気持ちに接することもあります。冷たい視線をたくさん知っているから本当の暖かさや優しさがわかるのです。

私は、それがわかるまで何年もかかりましたが、進の友だちは、瞬時にそれを理解したのです。こうした感動も地域で生きるからこそ遭遇できるのです。

障がい児を守って欲しいとは思いません。同じ目線に立ってしんどさや悔しさを想像し共有できる人が増えて欲しいのです。

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