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特集:福島原発事故被害地最前線 南相馬の今
避難する人も残る人も支援する デイさぽーと「ぴーなっつ」代表理事 青田由幸さん

青田さんは、障がい者支援事業を担う「ぴーなっつ」の代表理事です。原発事故直後、残っているのは「すぐに避難できる人」だけのはずでしたが、実際は、高齢者・障がい者(児)など逃げようにも逃げられない人々でした。青田さんらは、「目の前に支援を求めている人がいる。支援を続けよう」と、南相馬に残りました。

事故から2年半経っても、原発は収束にはほど遠い状態ですが、南相馬には人が帰り始めています。事業所も再建途上にあるように見受けられますが、実際はどうなのでしょう? 青田さんに話をお聞きしました。 (文責・編集部)

今年3月から「自力再建」に移行

編集部:街にはだいぶん人が増えて、車も行き交い、街は元に戻りつつあるようですが…。

青田:何をもって復興とするか?は、問題ですが、「ぴーなっつ」の利用者さんは、ほとんど帰ってきています。

震災発生以降、日本障害フォーラム(JDF)を中心とした支援を受けていたのですが、今年3月からは、自力再建に移行しました。事業所の再建だけでなく南相馬市の障がい福祉事業全体を立て直すために何が必要か?を話し合い、調査しながら支援の中身を変えていこうとしています。「きょうされん」にも2ヶ月ごとに参加してもらい、アドバイスしてもらっています。

具体的には、新潟県に避難をしていた重複・重度障がい者(視覚と精神障がい)が、南相馬に帰ってきて自立生活するために24時間支援を試行してきましたが、概ね成功しました。支援対象としては最も困難なケースなので、他の事業所や行政職員にも関わってもらいながら、「重度でも地域移行は可能である」という実感を、共有することができました。1つのモデルを作ることはできたので、今後、広がっていくでしょう。こうした実践を通して職員の意識も技術レベルも確実に上がってきています。

未来を展望する新たな障がい福祉の形を考えるならば、それは「当事者主体」であるし、「地域生活移行」だろうと思います。しかし、その基盤がない中でゼロから作り上げるには、相当な時間がかかることを覚悟せねばなりません。

たとえば被災地では自立生活センターの立ち上げも、まだまだです。当事者主体の運動は、全国的にも第1世代が60才を超えて高齢化し、世代交代の時期に入っています。しかし新しい世代の当事者は、第1世代の運動の成果で、ある程度制度が整ってきているなかで生活しています。このため、せっぱ詰まった課題を見つけて、焦点化するのが困難な時代でもあります。

東北地方は、大都市部に比べて福祉制度や自立生活のための社会資源が乏しいために、施設入所や家族介護が多かったと指摘されています。しかし国が保証する最低限の制度はあるので、これを活用しながら、当事者運動の活性化が望まれています。

避難か帰還か?

南相馬市は、事故前の人口=約7万人のうち、5万人足らずが、帰還しています。事故原発隣接地域としては、かなりの割合といえます。ただし、帰還した人たちが安心して戻ってきてるわけではありません。

戻って来た理由は、まずお金がなくなったことです。事故原発から比較的離れている南相馬市鹿島区住民(市の北側)への損害賠償は、「精神的苦痛はもう終わった」として、2012年に終わってますし、原町区(中心街)も2013年に終わります。市の南側で事故原発に近い小高区だけが、少し残ってますが、それも2013年末で避難に関わる賠償金の支払いは終了するかもしれません。これら住民は、仕事を失い、賠償金も入らず生活の糧がなくなってきているのです。

南相馬の住民は、「避難勧告」が出されて、避難できる人はほとんどが市外に避難しました。いったんは、ゴーストタウン化したのですが、戻りたい気持ちがあるので、避難先で仕事を探しても、正社員ではなく短期のパートでした。パート労働だと雇用は不安定だし、賃金も低い。だったら、「このまま勤め続けるより帰ろうかな?」と、思いはじめます。

男性も同じ状況です。避難先で「正社員にならないか?」と誘われて就職すれば、南相馬には戻らず、避難先で生活を再建するという判断になります。一方、パートのままだったら生活が厳しくなります。こんな経済的不安定さが住民を追いつめています。

2重生活の負担もあります。夫は地元で働き続け、奥さんと子どもだけが避難先で生活するという家庭もたくさんあります。こうした2重生活は、時間が経つにつれて、精神的・経済的負担が大きくなってきています。子どもが不安定になったり、奥さんも不安定になったりしています。

「単身赴任で2重生活の家族も多い。避難してる人だけがバラバラに暮らしているわけじゃない」という見方もあるわけですが、そういう会社に勤めているのと、原発事故が原因で納得できないまま、家族がバラバラで暮らさざるをえないのは、受け止め方が全く違います。

結局、「2重生活は無理、一緒に暮らそう」となると、不安を抱えたままお父さんの仕事がある場所となって、南相馬に帰って来るという選択なのです。「安心だ」と思っている人なんて、殆どいないのです。

「南相馬に残る」という苦しい選択

外見的には、街には人もいるし、車も走ってるし、お店も開いてきてるので、復興しているふうに見えます。でもここから4q南に行くと無人地域が広がっています。さらに8q南下すると、そこは3・11のままです。そんな地域と隣り合わせで生活しているのが南相馬の現実です。福島市や郡山市は、実際の放射線量は南相馬よりも高いところもありますが、隣の街も生きて人が生活しているので、生活実感はかなり違うと思います。

屋内待避指示が出た広野町(事故原発の南側20〜30q)の住民は、9割以上がいわき市へ避難しました。近くに避難できる場所があったからです。しかし北側にある南相馬は、仙台か福島まで行かねばなりませんでした。隣の相馬市は避難準備地域でしたし、仙台は、まさに被災地です。道路も破壊されていました。また、福島市に行くのは山越えです。雪が降っていたので通行が困難でした。結局、避難する場所のない多くの人たちが、とり残されました。

さらに福島市や郡山市の放射能汚染は南相馬より高いという事実も後からわかってきました。「それなら郡山や福島より、南相馬市に残っていた方がいいんじゃないの」という判断も生まれました。こうして南相馬の住民は、すぐに戻って来たのです。

苦しいところでの負の選択。皆マイナスの選択なのです。

安心できる生活再建をめざして

原発と放射能と避難の問題をまとめて一つの問題にして、考えてしまうと、原発=ダメ、放射能=危険、避難すべしという結論になってしまいます。しかし、これでは放射能が降った地域で生活を立て直し、生きていこうとしている人々のことが切り捨てられてしまいます。

私は原発の問題と放射能の問題をいったん切り離して考えるようにしています。原発や放射能は無論ダメですが、そこで立ち上がろうとする人々の営みを否定などできません。これは全く別のものです。

不安を抱えながらも地元に戻って生活を立て直すために何が必要なのか? 安心を積み上げていく作業とは何なのか?を考えねばならないと思っています。問題を整理しながら、避難する人も残る人も支援する、そういう寄り添う態度を失わないようにしたいと思っています。

除染にしても、安全基準の果てしない論争に加えて、ゼネコンが巨大予算が付いた除染作業を請け負いその下に無数の業者が群がるという構図の中で、住民の生活がそっちのけで論議がなされ、お金が動いているように見えます。

政府は山林の除染はしないという方針で進んでいます。また、帰還しない人の家は除染しないという市町村もあります。これで本当に安全は確保できるのでしょうか? 戻ってきた人は1カ所に集まって生活するわけではありません。除染した所としていないホットスポットがまだらにある地域で生活することになるのです。

「安全」と「安心」は一体のものでなければなりません。しかし安心は、個人の年齢や家族構成や生き方と深く関連しています。一般化などできないのです。

「安心」がどこかに忘れ去れて、「安全」ばかりが強調される流れには不安を感じます。

未来の地域作りのためにできること

福島市で活動するユニバーサルデザイン「ゆい」というNPOが、被災地の助成金を使って次世代育成のための事業を立ち上げました。相馬市の高校生を15人公募し、被災地で今何が必要なのか、未来に向けて自分たちは何をしなきゃいけないのか?を考えてもらい、ビジョンを持てる人材を育てるのが目的です。

第1回目には、映画「逃げ遅れる人々」を観てもらって、オリエンテーションを行いました。避難した人は避難できなかった人の現実を知りません。その逆もあります。そういう地域が直面した様々な問題を取り上げ、様々な人が住み続けられる地域作りとは何か?を考えてもらいます。

高校生は、大学受験も控えているので、目先の勉強やクラブ活動など日常生活に目がいきがちです。でも、原爆被災地である広島・長崎では、地元で起きた被害とその体験を次世代に伝えようとしている人たちがいます。そういう若い人材を福島でも育てなければなりません。当面の行動も大事ですが、現場を見て体験を聞く過程で彼らが何を考え、未来の地域作りのために自分に何をできるか?を考える意識付けができること。そういうきっかけを作りたいと思っています。

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