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当事者リレーエッセイ:忘れられた皇軍 村上博

大島渚監督の『忘れられた皇軍』を見た。太平洋戦争で日本軍の軍属として徴兵された韓国籍の人たちが傷痍軍人となり、日本政府に補償を求める行動を追ったものだ。朝鮮戦争特需で息を吹き返した日本経済。戦後18年を経過し、1956年の経済白書に記載された「もはや戦後ではない」という言葉さえ、ひと昔前となった時代、高度経済成長に浮かれ、東京五輪開催を翌年に控えた1963年8月に放映されたドキュメント作品だ。

装具とは程遠いフックが付いた義手や野戦病院で負傷兵が着ていた白装束姿に軍帽、両眼の眼球を失い落ち窪んだ目元を隠すためのサングラス、切断され残った片足と松葉杖で総理大臣に直訴するため、日本人の好奇の眼差しに晒されながら国会まで歩く一行の『皇軍』の様子をカメラは追っていた。

当然、総理大臣には会えず、国会の一室で「すでに日韓の国どおしで話は付いており請求すべきは韓国政府だ」と告げられる。その足で韓国領事館に向かった一行に対し、領事館職員は「日本軍の一員として負傷したのだから日本政府に補償を求るべき」と伝えられる。作品の中で大島は「日本人としてこれでいいのか」と怒りの表情で叫んでいた。

私が小学生のころ、熊本城前の御幸坂には失った手足を晒し、空きカンを置き観光客にお金を求める「傷痍軍人」がズラリと並んでいた。私はいたたまれない気持ちで彼らを見ないように、通り過ぎたことがある。あの時の傷痍軍人も同じ立場の人たちだったのだろうか。

問題を共有する難しさ

「ヒューマンネットワーク熊本」設立当初の頃、東 俊裕代表(現 内閣府障害者制度改革推進室長)は、「胎児性水俣病の人たちは、人間の尊厳をかけて国と闘い続ける『患者』だ」と語った。

私たちは障害を受容し、障害者として、福祉制度や福祉サービスの充実、地域環境のバリアフリーを求めて『障害者運動』を展開してきた。私も障害者運動を通し、障害を受容し自己肯定もできるようになった。しかし、水俣病患者たちのるべき」と伝えられる。作品の中で大島は「日本人としてこれでいいのか」と怒りの表情で叫んでいた。

私が小学生のころ、熊本城前の御幸坂には失った手足を晒し、空きカンを置き観光客にお金を求める「傷痍軍人」がズラリと並んでいた。私はいたたまれない気持ちで彼らを見ないように、通り過ぎたことがある。あの時の傷痍軍人も同じ立場の人たちだったのだろうか。人間の尊厳をかけた闘いに目を向け、共感していたのだろうか。

昨年5月、「ひろしま菓子博」で実行委員会が電動車いす障害者の入場を認めない旨、ホームページに掲載した。地元広島をはじめ、全国の多くの障害者団体から厳しい抗議をうけ、実行委員会は小出しの対応を続け、最終的には何らの制約を設けず入場を認めた。しかし、根本原因を当事者団体が指摘した実行委員会の『障害者差別』とは最後まで認めなかった。

昨年、「障害者差別解消法」が国会で成立した。だが「ひろしま菓子博」以後、九州国立博物館でのイベントや名古屋の高島屋デパート地下食料品売り場への電動車いす入場を拒む『事件』が相次いだ。

人としての尊厳をかけた闘いは、これからが正念場。あらゆる被差別の立場と問題点を共有する姿勢を、私たちは試されている。

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