特集:楠 敏雄−その人、その仕事、その思想 交渉の達人・人権の見張り人・ロマンチスト
10/1偲ぶ会「わいわいトーク」より
10月1日、たかつガーデン(大阪市天王寺区)で、「楠敏雄・偲ぶ会」が行われました。楠さんは北海道出身で、障害の有無によらず誰もが地域の学校で学べるよう養護学校義務化阻止運動の先頭を担い、阪神大震災でも当事者支援に尽力。「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議」議長、DPI〈障害者インターナショナル〉日本会議副議長も歴任されました。2月日、腎不全で死去。享年歳でした。
偲ぶ会は、朝・昼・夜の3部構成で行われ、のべ700人が楠さんを偲び、障害者解放運動の一層の発展を誓いました。朝の部では、嵐谷安雄共同代表の挨拶のあと、DVD上映もまじえスピーチが続きました。昼の部では、牧口一二さんの司会で「わいわいトーク」が行われ、夜の部では、「劇団・東大阪」が、楠さんの少年期までを演劇に仕立てて披露するなど、盛りだくさんの偲ぶ会でした。
まねき猫ではわいわいトークを紹介し、楠さんの知られざる一面やその思想がどのように形成されたのかを、垣間見たいと思います。
司会は、牧口一二さん、パネラーは、永村實子さん、河野秀忠さん、岸田典子さん、三上洋さんの4名です。「わいわいトーク」は、牧口さんが趣旨と進行を説明することから始まりました。以下、要約です。 (文責・編集部)
盲学校時代珠算競技会で入賞
牧口:激しい運動は楠さんが担って、ええかげんな運動は牧口が担ってきました。(笑)だから私がまじめにやっても、ええかげんになるだろうと、私が司会者ということになりました。よろしくお願いします。
パネラーには、3つのテーマで話して頂きます。@初めて彼と会ったのは何時で、その時の印象。A誰も知らない楠さんのエピソード。B彼は何を言い残したかったか?です。まず、一番早く楠さんと出会っている三上さんからお願いします。
三上:楠さんと出会ったのは、北海道点字珠算競技会です。私が9才、札幌盲学校、彼は小樽盲学校でした。競技会の成績は、彼が2位、私が3位でした。
小樽盲学校には高等部がないので、彼は札幌盲学校高等部に入学。2度目の出会いとなりました。高等部は寄宿生活だったので、すぐ親しくなり、実家からのおすそ分けを貰ったりして、とても面倒見のいい人で、手紙の書き方も教えてもらいました。
牧口:次は岸田さん。中学2年=歳の時に会われたとか。
岸田:はい、京都府立盲学校時代です。当時は学生運動が真っ盛りでした。ある日、「学生が襲撃してくる」という情報があり、数日して教室の窓から正門を眺めていると、ドドドと音がして、男子学生が乱入してきたのです。これが有名な京都府立盲学校乱入事件です。その中に楠さんがいました。
楠さんは当時から有名で、大学の英文科を首席で卒業。盲学校の先生は、「学生運動なんかせんと、研究を続けていれば大物になっていたのに…」と残念がっていました。この頃、楠さんは長髪に精悍な顔つきで、女性にモテたんじゃないでしょうか。
学生運動から全障連結成へ
牧口:学生運動の話になると河野さんやね。
河野:年安保闘争に敗北し、「この敗北を何とかできないものか」と悩んでいる時に「青い芝の会」に出会い、「そよ風のように街に出よう」という運動を始めていました。ある時、友人から「京都にすごい障害者おるで。白いヘルメット被って、白杖を振り回している」と聞いたのが、楠さんのことでした。
彼は大学を卒業すると大阪に来て、「次の活動目標は養護学校義務化阻止」という時に、関西障害者解放委員会として登場したのです。私とはヘルメットの色が違うので、これは用心しますよ。(笑)
ところが会ってみると楠さんは、「義務化阻止闘争は、バラバラではいかん。全国的に闘おう!」と、東京の八木下さんとたった3人で新大阪の喫茶店で全国相談会なるものをやり、これ以降、楠さんを中心に怒濤のように準備が進められ、「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」結成に到達したのです。その計画性・論理性は、楠さんの脳裏に設計図としてあったのだ、と私は確信しています。
あの頃は、何にもなかったけど、夢だけはてんこ盛りにあった、そんな時代でしたね。
牧口:それでは永村さん、よろしく
。永村:私は当時、地方から大阪に出てきて、学生運動が盛んな定時制高校に通ってました。私はビラも受け取らない生徒だったのですが、しつこく勧誘され、社会科学研究会に出入りし始めました。ただし「障害者運動だけは勘弁して」と言っていました。当時の私は、障害にコンプレックスを持っていて、障害者の部類にくくられるのがとても嫌だったからです。
しかし、新たに障害者解放研究部を作ることになり、連れて行かれたのが、楠さんたちの大学解放研でした。「話をまとめるのが上手い」というのが楠さんの評価でしたが、白杖を振り回して演説する楠さんを、不思議な人だと思っていました。
年に渡るつきあいになりましたが、根気よく付き合ってくれたな、と感謝しています。本当に面倒見がいい人でした。
牧口:次は、「私だけが知っているエピソード」を披露してもらいます。
三上:盲学校の寄宿舎は、夕飯が午後5時。夕食から朝食まで時間もあるので、腹が減ります。寄宿舎を脱走してラーメンを食べに夜の町を徘徊するのですが、人数が多くて班に分かれて脱走したこともあります。楠さんともよくラーメンを食べに行きました。
岸田:楠さんは食いしん坊でしたよね。腎臓を患って、晩年は週3回も人工透析を受けてたのに、食事制限を全くしないし、酒も毎日呑んでましたね。
また、楠さんは学生運動で素晴らしい実績があります。ポケットに入れていた白杖が「凶器」とされて、警察に4日間拘留されたんです。「まさか視覚障害者がデモなんてしない」という警察の思い込みです。取り調べでは懐中電灯を眼にあてられ、本当に見えないかどうか、調べられたそうです。
警察もようやく障害者であることを理解しましたが、取調べはされたそうです。「取調べには@恫喝型、A泣き落とし型、Bジョーク型がある」というようなことを語っていました。
「見えない文化」を教えてもらった
牧口:楠さんは69歳で逝きました。まぁ若い死です。彼はどんな無念を持ちながら旅立ったのでしょう?
永村:楠さんが生きている間に実現したかった制度が、低料第3種郵便でした。体が思うように動かない状態でも「東京に行く」とね。「そんなことしてたら死んでしまうで!」と言うと、「俺は太く短くでええねん」と言ってました。生きている限り運動の中に身を置き続ける生き方を貫いたんだと思います。
彼は、私の人生に大きな得をくれました。喧嘩もありましたが、まめに付き合ってくれて、「私はこれでいいのだ」と自分を認められるようになりました。彼の生き様や助言がそうしてくれたのだと思っています。
牧口:それを聞いて楠さんは、天国で喜んでるやろなぁ。
河野:楠さんには、「眼が見えないことのなかに、見えない文化がある」ことを教えてもらい、「目からウロコが落ちて」眼の見えることの不合理さにオタオタしたのを覚えています。
砕氷船のように差別の氷原を進み、水路を作り、その先に「人間解放の目的」を示し、水路に多くの仲間を招き入れ、つなぎ合わせた楠敏雄さん。ボクは、「楠さんの遺志を受け継ぐ」というようなことは言うまいと思っています。
ボクにはあまり時間はありませんが、彼の後ろ姿を見ながら、彼が行こうとした先を凝視して、力一杯生き、障害の有無に関係なく、「人として生きられる世界」を創造する道を歩もうと思っています。
牧口:「見えない文化」については、もっと話したいけど、時間ないなぁ。残念です。
歌を愛し野鳥を愛したロマンチスト
岸田:1950年代から年代まで、視覚障害者の職業といえば、「あんま・針・灸・マッサージ」。楠さんも盲学校卒業後、札幌でマッサージの資格をとってアルバイトをしていました。
ところがこの業界は、徒弟制度で最低賃金も保障されず、休みもなく、ほとんど時間労働だったそうです。
楠さんは、「このままでは自分がダメになる」と思い京都に行き、学生運動を経て「関西障害者解放委員会」を結成するのですが、盲の仲間と共に業界改革に挑んだのです。しかし年代はまだ徒弟制度が残っており、業者が協定を結んで運動している障害者を締め出してしまいました。結局、改革は挫折してしまったのです。
80年代に業界の改革が進み、労働条件は正常化しましたが、楠さんは晩年まで挫折をひきずっていたようです。彼は北海道時代のことをあまりしゃべりません。それは視覚障害者の彼が経験した辛い思いが込められていたのだと思います。
今頃楠さんは、あの世で美味しいものを食べて太ったおやじになってるでしょうが、いま日本は、難しい状況です。私たちマイノリティが人間として社会のなかで生きていけるように、若い世代の人には楠さんに学びながら、新しいエネルギーを蓄えてほしいと願っています。
三上:彼は先輩ですし人生の恩人です。マッサージ治療院は彼と2人で運営し、部屋もシェアしていました。私が、豊中市の公務員試験に点字で受験する運動には、9年間、昼夜を問わず応援してくれました。
彼は交渉の達人です。交渉が難航した時も、最後には楠さんが論点を整理し、当局もうなずかざるを得ない宿題を提案し、次回交渉につなげるのでした。
また、彼は歌だけでなく鳥や株など多趣味でした。野鳥は、殊のほか可愛がっていました。盲学校の友人たちと毎年、旅行会もしていました。
ようやく差別解消法をはじめ法整備が進みましたが、当事者が声を発しないと合理的配慮も前に進みません。ようやくここまできたときに彼が亡くなったのは、残念・無念でしょう。
最後に彼のことを3つの言葉で締めくくります。「交渉の達人、人権の見張り人、ロマンチスト」です。
牧口: 最後に「ロマンチスト」で締めくくってもらえたのは、うれしいなぁ。ぎっしり満員のみなさん、ありがとうございました。
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