障害当事者のリレーエッセイその6

 コミュニケーションについて(おも)うこと

森本(もりもと) 菜穂子(なほこ)


 (しゅう)(かい)(わたし)たちの職場(しょくば)()られる高齢(こうれい)のろうあ(しゃ)がいる。一人暮(ひとりぐ)らしをされていて、(いま)までは()(ところ)がなくて、よく()役所(やくしょ)などへ()ったりされていたようだ。だが、その(ひと)身振(みぶ)りによるコミュニケーションは周囲(しゅうい)にはあまり(つう)じず、たぶんこれまで(さび)しい(おも)いをされてきたに(ちが)いない。最初(さいしょ)(ころ)は、(わたし)もスタッフもその(ひと)(あらわ)手話(しゅわ)というより、身振(みぶ)りに(ちか)独特(どくとく)表現(ひょうげん)()れていなくて()かりにくかった。しかし、()られるたびに、(わたし)たちに(むかし)のろう学校(がっこう)時代(じだい)のアルバムを()せてくれた。そのうち、段々(だんだん)()()背景(はいけい)環境(かんきょう)がわかってきて、なぜか自然(しぜん)にその(ひと)(はな)したいことが理解(りかい)できるようになった。

 手話(しゅわ)(まな)環境(かんきょう)幼少(ようしょう)のころになかった(ひと)場合(ばあい)成人(せいじん)してろうあ(しゃ)(あつ)まりなどに参加(さんか)し、会話(かいわ)しながら手話(しゅわ)をみようみまねで(おぼ)えていく(ひと)もいれば、仕事(しごと)(いえ)会社(かいしゃ)()()するだけで、ろうあ(しゃ)とのつながりのない(ひと)もいる。そこで、問題(もんだい)になってくるのは、自分(じぶん)(おも)っていることや気持(きも)ちを表現(ひょうげん)できることば(手話(しゅわ)音声(おんせい)言語(げんご)身振(みぶ)りなど)を()っているかどうか、また相手(あいて)表現(ひょうげん)できることばで(つた)え、わかってもらうというコミュニケーションができているかどうかである。

 (さき)ほどの(ひと)(れい)でも()かるように、一人暮(ひとりぐ)らしであるとか、家族(かぞく)一緒(いっしょ)()んでいても手話(しゅわ)ができる(ひと)がいないために家族内(かぞくない)でコミュニケーションがうまく()れていないとか、そういう(なや)みを(かか)えているろうあ(しゃ)(すく)なくない。()どもの(とき)友達(ともだち)やいろいろな(ひと)出会(であ)って、()いたいことや自分(じぶん)(おも)っていることを相手(あいて)(つた)えることを、たくさん経験(けいけん)していなければ、大人(おとな)になってもコミュニケーションがうまく()れないことが(おお)い。(はなし)一方(いっぽう)通行(つうこう)だったり、相手(あいて)(はなし)()けないという問題(もんだい)()てくる。

 だが、コミュニケーションできる友達(ともだち)がいる、あるいは場所(ばしょ)があると、人間(にんげん)はほっとして安心(あんしん)できるのではないのだろうか? 障害(しょうがい)をもついろいろな(ひと)(あつ)まって、コミュニケーションできる()(サロン)を作りたい。

(6ぴきめ 2002年10月)

 

もりもと・なほこ●1962(ねん)枚方市(ひらかたし)()まれ。ろうあ(しゃ)。すいた自立支援(じりつしえん)(しえん)センターを()て2002(ねん)(がつ)からNPO法人(ほうじん)パーソナルサポートひらかたに常勤(じょうきん)。ピア・カウンセラー。

                                                   

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