まねき猫通信112ひきめ(2011年11月2日発行)
トリの眼・ムシの目・ニャンコの目 (巻頭コラム)
1954年3月1日、静岡県焼津漁港所属の第五福竜丸はビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験に遭遇、数時間に渡って死の灰を浴び続けた。無線長の久保山愛吉さんは「原水爆による犠牲者は私で最後にして欲しい」の遺言を遺して9月23日に死亡、享年40歳の若さだった。事件後、魚の消費が極端に落ち込み、「雨に濡れると髪の毛が抜ける」という迷信も生まれた。
日本は原子爆弾・水素爆弾、両核爆弾の被爆(曝)体験を持つ国となり、広島・長崎の「被爆2県」ではなく、静岡を加えて「被爆3県」とすべきだという声も高まった。11月には映画『ゴジラ』が公開、観客動員961万人を記録した。怪獣ゴジラは、実は「核の落とし子」だった。
1955年8月、初の『原水爆禁止世界大会』が広島で開催された。同年11月に、東京で『原子力平和利用博覧会』が行われた。翌1956年5月に広島でも開かれて、入場者数は11万人にのぼった。この年、経済白書が「もはや戦後ではない」と高らかに宣言、それが流行語になった。 「戦後復興と高度経済成長」の流れの中で、「平和運動」は「原子力の平和的利用」を撃たなかった。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ…「絶望の希望的利用」は、本当に可能か…? (パギ)