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あんた、本当に新聞記者なの?A                       
(2002年9月 5ひきめ)

@ABCDEFGHI


 オモニハッキョ
25周年(しゅうねん)せんせも熱唱(ねっしょう)!?



 毎週月(まいしゅうげつ)木曜日(もくようび)(よる)大阪市(おおさかし)生野区(いくのく)のキリスト(きょう)施設(しせつ)聖和(せいわ)社会館(しゃかいかん)」に(ふたた)(かよ)(はじ)めて2(ねん)半近(はんちか)くが()ぎた。

 ここでは、「生野(いくの)オモニハッキョ」(オモニは朝鮮語(ちょうせんご)(はは)、ハッキョは学校(がっこう))と()づけられた在日(ざいにち)韓国(かんこく)朝鮮人(ちょうせんじん)女性(じょせい)()けの識字(しきじ)学級(がっきゅう)が、もう25(ねん)(つづ)いている。行政(ぎょうせい)援助(えんじょ)()けず、民間(みんかん)のボランティアだけで(いま)まで運営(うんえい)してきた在日(ざいにち)のための教室(きょうしつ)としては、日本(にほん)(もっと)(ふる)いものという。(わたし)大阪外大(おおさかがいだい)朝鮮(ちょうせん)語学科(ごがっか)の4年生(ねんせい)(とき)知人(ちじん)(さそ)われて卒業(そつぎょう)までの1年間(ねんかん)をここで()ごした。(あき)(ふか)まったある()()()ちのオモニと(かお)()わせるなり、「せんせ、きのう(はじ)めてひとりで電車(でんしゃ)()れた!」と満面(まんめん)笑顔(えがお)報告(ほうこく)された(おも)()は、(わす)れることができない。

 彼女(かのじょ)はそれまで、目的地(もくてきち)表示(ひょうじ)()めないばかりに(えき)切符(きっぷ)()えず、徒歩(とほ)自転車(じてんしゃ)()ける範囲内(はんいない)だけで()らしていたのが、授業(じゅぎょう)のおかげで近鉄(きんてつ)の「鶴橋(つるはし)」と(となり)の「今里(いまざと)」のひらがな表示(ひょうじ)()めるようになり、(おも)()ってひとりで往復(おうふく)してきたのだという。学生(がくせい)時代(じだい)、ほかにもいくつかの運動(うんどう)にかかわった(なか)で、これほど手放(てばな)しで感謝(かんしゃ)されたのは(わたし)にとっても(はじ)めてだった。教室(きょうしつ)発足(ほっそく)したのがその前年(ぜんねん)の1977(ねん)(がつ)で、講師(こうし)ボランティアもなかなか定着(ていちゃく)せず、1年間(ねんかん)(かよ)ううち半数(はんすう)以上(いじょう)()()わるありさまだったが、これですっかりのめり()んだ。入社(にゅうしゃ)試験(しけん)前夜(ぜんや)(やす)まなかった。

 新聞社(しんぶんしゃ)入社(にゅうしゃ)すると、普通(ふつう)地方(ちほう)県庁(けんちょう)所在地(しょざいち)にある支局(しきょく)配属(はいぞく)され、警察署(けいさつしょ)事件(じけん)事故(じこ)取材(しゅざい)をするところから仕事(しごと)(はじ)まる。(わたし)のスタートは高知(こうち)だった。もともと(あたま)でっかちで不器用(ぶきよう)なだけに、失敗(しっぱい)連続(れんぞく)()()むことが(おお)く、(やく)3か(げつ)で10キロほどもやせた。(あき)には県警本部(けんけいほんぶ)()める先輩(せんぱい)記者(きしゃ)から「お(まえ)はいなくていい。(おれ)ひとりで仕事(しごと)するから」とまで()われる始末(しまつ)。いつやめても不思議(ふしぎ)ではなかった。「せめて仕事(しごと)らしい仕事(しごと)ができるまで(なん)とか・・・」と必死(ひっし)自分(じぶん)(ふる)()たせることができたのは、やはりオモニハッキョの(おも)()があったような()がする。その()翌年(よくねん)(がつ)(まつ)警察(けいさつ)担当(たんとう)をはずれて教育(きょういく)担当(たんとう)となり、取材(しゅざい)範囲(はんい)(ひろ)がった。3年目(ねんめ)(むか)える(ころ)、ようやく自分(じぶん)なりにこの仕事(しごと)(つづ)ける自信(じしん)がついた。

 21(ねん)ぶりの再訪(さいほう)。「()どもの(ころ)(おんな)学校(がっこう)()かんでもええ()われてた。こんな(とし)になって、いくら(おぼ)えたつもりでもすぐ(わす)れてしまう」の(なげ)きは以前(いぜん)(おな)じだが、オモニたちには変化(へんか)()える。かつては文字(もじ)こそ()めなくても、大阪弁(おおさかべん)日常(にちじょう)会話(かいわ)不自由(ふじゆう)はなかった。(いま)ではニューカマーが()え、日本語(にほんご)会話(かいわ)がまったくできない(ひと)もいる。(わたし)のように片言(かたこと)でも朝鮮語(ちょうせんご)ができると、貴重(きちょう)戦力(せんりょく)、とうぬぼれることができる。スタッフの同僚(どうりょう)によると、「夜間(やかん)中学(ちゅうがく)毎日(まいにち)(かよ)うことが前提(ぜんてい)のカリキュラム。仕事(しごと)()われてとても(かよ)えないという(ひと)が、生野区(いくのく)だけで百人(ひゃくにん)はいる」という。

 7(がつ)21(にち)には食事(しょくじ)()(もの)()()り、オモニたちと家族(かぞく)友人(ゆうじん)、スタッフ有志(ゆうし)でささやかな25周年(しゅうねん)記念(きねん)式典(しきてん)(ひら)いた。(わたし)簡単(かんたん)なあいさつに(つづ)いて、学生(がくせい)時代(じだい)にレコードで(おぼ)えた「鳳仙花(ポンソンファ)」を熱唱(ねっしょう)した(と()きたいところだが、ほんとうは感極(かんきわ)まって途中(とちゅう)(こえ)裏返(うらがえ)ってしまい、(うた)としては散々(さんざん)だった。ああ、()ずかしい)。

  

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